かたゆふぐれ

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「あなたを好きになっても、兄は私を許してくれるでしょうか」  鼎は猫に、問うた。  猫はひくひくと髭を動かし、鼎の膝の上に乗った。猫は柔らかく温かい。これが榮子かもしれない、という幻想を忘れそうになる。榮子に戻ってきてほしいのと、猫が愛おしいのと。鼎の中には同一にはなりえぬ事実が、平行線を描いていた。 「三人で遊んだ時のことを思い出すのです。兄は今の私と同じくらいの年で。もう、大人でした。私が八つ、あなたは十でしたね。笹舟を作って、水車小屋の近くの小川で流しました」  その夏の間中、良治は寝込んでいた。水車に遊びに行ったのは、良治の病気が治り、萩の花がぽつぽつと咲き始めた時期だった。  榮子と鼎は、細い体つきの良治のうしろから、神妙な気持ちで付いていった。あぜ道の両脇いっぱいに広がる田には、色づきを待つばかりの稲穂が、秋の雲を従えた空に向かって伸びていた。  治ったとはいえ、兄の足取りは重かった。すっかり体力が落ち、一歩一歩が苦し気だった。水車小屋に向かう間、二人は黙りこくっていた。  田んぼのすぐ上を、蜻蛉たちが軽やかに飛び交っている。兄の周りに蜻蛉がいる。その情景が苦しくて鼎は空を見た。横に並んだ丸い雲の手前に、トンビが輪を描いている。何故兄ばかり、辛い思いをして生きているのか。兄は辛いとは言わなかったが、鼎は辛かった。  水車に着くと、兄は近くの石に腰を下ろした。少し息が上がっている。松の木が影を作っていた。鼎は楽しそうなふりをした。こうやって兄も自分も欺いて。自分の喜ぶ姿で、兄がこの世にとどまってくれたらいいと。  しかし、榮子が笹舟を追いかけて、小川の流れに沿って兄弟から離れた時だった。良治が鼎に静かに言った。  鼎よ、私にもしものことがあったら、榮子ちゃんのことを気にかけてやってくれ、と。 「弟の私に、それは真摯に頼むのです。これは私は榮子さんのことを好いてはだめだ、と幼心に思いました。あなたは兄の大切な人だから」
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