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鼎は榮子の手をひいて、急いで境内を離れようとした。しかし、榮子はそちらに足を向けなかった。
「家に帰る前に、確かめておきたいことがございます、鼎さん」
「、何でしょうか」
「わたくしを好いてくださるの」
「あの、その話は忘れてください」
「嫌です」
榮子はきっぱりと言った。
「猫でいたときは、鼎さんのこの手が撫でてくださった、ほら」
こことか、といいながら、榮子は鼎の手を自分の首筋にあてがった。
「え、榮子さん、何をなさっているのですか」
「ですから、わたくしが猫の時は、こうやって撫でてくださったでしょう、と申し上げているのです」
確かにそうだ、と鼎は思ってしまった。言い返せないでいる間に、榮子は彼の手を自分の腹に当てた、ここを撫でてもらうのはとても好きでした、と恥ずかしげもなく言う。大きな鼎の背が、次第にまるくなる。猫の時とは違う、人間の女の感触。まごまごとする鼎の様子に、榮子はやんわりと笑む。
「わたくし、猫になってよかったと思います。鼎さんの優しいお顔、たくさん見ることができましたもの」
たじろぐ鼎をよそに榮子は話し続けた。
「なぜ、猫にはあれほど雄弁なのです。わたくし、猫に嫉妬してしまいます。鼎さん、あの猫は確かにわたくしでした」
「……左様ですね」
社殿の前で、しかもこのような榮子に押されているのが、鼎。しかも鼎は着物を榮子に貸したせいで、下着姿である。万が一だれかお参りにきたら、と鼎は赤くなったり青くなったり、忙しい。
「さあ、鼎さん。神様の前で誓ってください」
「いえあの、それは、婚儀の時でよいのではないでしょうか」
「それでは、神様にお願いした甲斐がございません。わたくしが、何故猫になれたとお思いなのです。こんなこと、神様にしかできないではありませんか。わたくしにも分かりませんけれど、もっと鼎さんのことが知りたいとお願いしておりました。それで猫になっておそばに居れましたので、感謝しております」
そう、一気にまくし立てて、榮子は鼎の頬に手を当てた。まあ、鼎さん、頬が熱くなっておりますよ、とコロコロ笑う榮子は、知らない女のようだった。
「榮子さん、あの、本当に榮子さんなのですか」
「そんなの、どうやったって証明できませんけれど、そうですね。幼い頃、良治さんが寝込んでいる間に鼎さんと色々悪さをした思い出話でよろしければ、いくらでもお話いたしますよ」
鼎が暫く口ごもっていると、榮子は社に向かって深々と優雅に頭を垂れた。
「そうだわ、鼎さん、別にすぐに家に帰らずともよいでしょう。三月ほどあなたのことを見ておりましたけれど、この後家に帰ってもすることがないのだもの。ねぇ」
紅も差していない榮子の唇が、なまめかしい赤になった。社の影が深くなる。兄の影もひそかに過ぎる。それよりも、榮子がくっきりと浮かんでいて、鼎は新しい罪悪感にとらわれそうだった。
夕刻の陰翳は寄り添う。鼎の浅はかな思いなど踏みにじって、奥底をさらけ出せとささやく。まだ観念したくない鼎の最後の良心を、榮子がそっと押すのだった。
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