The suspension bridge effect

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The suspension bridge effect

 忘れられない出来事がある。  小学五年生の夏休み、オレは洋兄ちゃんに誘われて一泊のキャンプに出掛けた。  洋兄ちゃん、というのは隣の久下家の次男、洋次郎のことだ。  洋兄ちゃんは昔から……それこそオレが生まれたときからオレの面倒をよく見てくれて、ひとりっ子のオレは随分と洋兄ちゃんに世話になってきた。  洋兄ちゃんはオレとは十歳違いで、オレみたいな子どもを相手にするより同級生と遊ぶ方がよっぽど楽しかっただろうに、顔を合わせれば「陸斗」と声をかけてきて、オレに飽きることなくつきあってくれた。  久下家とうち……羽柴家は家族ぐるみの付き合いをしていたから、洋兄ちゃんが八月に、 「キャンプに行かないか?」  と誘ってきたときも、オレは二つ返事で頷いたし親の許可もあっさり出た。  必要なものはすべて洋兄ちゃんが揃えてくれるとのことだったので、オレは自分の着替えとおやつを用意するだけで良かった。  朝から太陽がギラギラ照っている中、洋兄ちゃんの運転する車でキャンプ場へと向かう。  洋兄ちゃんは高校卒業と同時に免許を取りに行っており、それから二年以上が経っているから、 「もう初心者マークじゃないから陸斗も安心だろ」  と笑いながらハンドルを握っていた。  ふだん冗談を言い合ったり、ゲームをしたりしてるときはあまり思わないので、運転してる洋兄ちゃんを見ていたら、ああ大人なんだなぁとしみじみと感じた。  二時間ほどで到着したキャンプ場は、高原に位置する場所で、車を降りると少しひんやりとする。  真っ直ぐに立ち並ぶ木々が暴力的なまでの太陽を遮ってくれているおかげだろうか。涼しさにホッと息を吐くと、 「空気が美味いよな」  と洋兄ちゃんが言った。  空気に味なんてないからそう返したら、 「お子様にはわからない味か」  洋兄ちゃんが唇の端で笑った。木漏れ日が洋兄ちゃんの頬にスポットライトを落としていて、なんだか眩しかった。  キャンプ場で受付をして、テントの場所を確認した洋兄ちゃんに連れられて、オレは均された道を歩いた。  道の左右に、白いドーム型のテントがポツポツと立ち並んでいるのが見える。  その一つがオレたちが泊まるところで、テントの前には木の看板が立てられており、そこに『8』と番号が書かれていた。  テントの形はぜんぶ同じだから、間違えないようにとオレは番号を脳にインプットした。  「陸斗」  洋兄ちゃんがテントの入り口を開いてオレを手招く。オレは意気揚々と中を覗いて……目を丸くした。中は、去年の学校行事のキャンプのテントとはまったく違っていて、めちゃくちゃ快適そうなベッドが二つと、ローテーブル、たくさんのクッションと座椅子まで備え付けられていたのだ。 「うわぁ~、なにこれ。寝袋じゃないじゃん」  感嘆の声を上げたオレの頭をくしゃりと撫でて、洋兄ちゃんがベッドにダイブした。 「俺はベッドじゃないと寝れねぇの。寝不足で明日運転できなかったら困るだろ」  早速ごろごろと寝転ぶ洋兄ちゃんの姿に、じゃあなんでキャンプなんかチョイスしたんだろうと不思議になった。  オレの疑問が顔に出たのか、洋兄ちゃんがよいしょと上体を起こして、 「おまえ、釣りがしたいって言ってたろ」  と言った。 「うん」 「奥に川があってな、そこが釣り堀になってんだよ」 「えっ」  なにそれめっちゃ楽しそう。 「バーベキューもしたいって言ってたろ」 「うん」 「横のウッドデッキでできるから」 「マジ?」 「マジマジ」  キャンプといえば飯盒炊爨とカレー、と思ってたオレのテンションが一気に上がった。  オレがやりたいって言ったこと叶えるためにこんな場所に連れてきてくれるなんて、洋兄ちゃん、いいひとすぎねぇ?    結果から言えば洋兄ちゃんとのキャンプは最高だった。  釣りも楽しかったし、炭に火をつけるのも楽しかった。バーベキューはでっかいウインナーや肉、野菜だけじゃなく、木の棒に巻き付けたパン生地を焼いたり、マシュマロまであったりと美味しいのと面白いのが合体してやばかった。  はしゃぎ疲れて、夜はあっという間に寝てしまった。ベッドの寝心地はふかふかで、ぐっすりと寝たオレは……深夜、尿意を感じて目を覚ました。  ローテーブルの上に小さなランタンが置かれていて、そのオレンジ色の灯りに浮き上がる景色に、そこが自分の部屋じゃないことに一瞬驚く。それからすぐに、洋兄ちゃんとキャンプに来たんだったと思い出した。  隣のベッドでは洋兄ちゃんが寝ている。  どうしよう、と束の間考えた。  ひとりでトイレに行くべきか。それとも洋兄ちゃんについてきてもらうべきか。  テントの幕越しに外の灯りも見えるから、夜道が真っ暗というわけではないだろう。共同トイレは昼間も寝る前にも行ったから場所はわかっている。  でもやっぱり……慣れない場所をひとりで歩くのは少し怖い。  オレは恥を忍んで洋兄ちゃんを起こすことを選択した。 「洋兄ちゃん、起きて」  こんもりした布団を揺さぶると、洋兄ちゃんが「う~ん」と唸った。 「……陸斗、どうした?」  半開きの目をこすりながら問われて、オレは小声で「トイレ」と告げた。  洋兄ちゃんは「そっか」と頷いて、もぞもぞとベッドから這い出てくれた。 「外冷えるからこれ着ていけよ」  座椅子の背にあったパーカーをオレにぽいと投げて、あくびをしながら洋兄ちゃんがテントの入り口を開く。  洋兄ちゃんの言った通り、夜の空気は驚くほどに冷たかった。  ぞくり、と背を震わせてオレはパーカーに袖を通した。  洋兄ちゃんが先に立って、共同トイレまでの道を歩く。道の左右には足元灯が点けられていて比較的明るかったけど、奥に視線をやるとそこは闇に沈んでいて、木々のシルエットすらわからなかった。  虫や鳥の声が不気味に響く。  洋兄ちゃんについてきてもらって良かった、と思いながら足を進めていたオレの耳に、不意になにかの音が聞こえてきた。    なんだろう。なにかの動物だろうか?  いや、違う。  これは……これは、女のひとのすすり泣く声だ。  暗闇から、苦しげに、かなしげに響くその声にオレは戦慄して、足が竦んでしまった。オレが立ち止まったことに気づいて、先を歩いていた洋兄ちゃんが振り返る。 「陸斗?」  数歩の距離を後戻りして、洋兄ちゃんがオレの顔を覗き込んできた。 「どうした?」 「……こ、こえ」  情けないことにオレはぶるぶる震えながら洋兄ちゃんにしがみついた。洋兄ちゃんが首を傾げる。もしかしてオレにしか聞こえないとかそういうオチなのか、とオレはいよいよ怯えて必死に洋兄ちゃんのみぞおちあたりに顔を埋めた。  しかし女の啜り泣きは洋兄ちゃんにもバッチリ聞こえたようで、 「あ~……幽霊、かもな」  聞きたくなかった単語が、兄ちゃんの口から飛び出した。オレはひぃっと短く叫んで、さらに洋兄ちゃんに密着した。やばい。泣きそうだしチビりそうだ。  兄ちゃんがオレの肩をしっかりと抱いてくれているのだけが救いだ。  けれど洋兄ちゃんはあらぬことか、 「陸斗、行きに通って来たトンネル覚えてるか?」  と、低いトーンで話しだした。 「あそこ通るとき、俺、ちょっとゾッとしてさ。なんか嫌な気がしたんだよな」 「ややややめろよバカっ!」  恐ろしさにビブラートをかけたみたいに声が震えた。  顔を上げて洋兄ちゃんを睨みつけたら、兄ちゃんはものすごく真剣な顔で、暗闇の一点を見つめていて。 「……ついてきちゃんのかもな」  なんて、恐ろしいことを呟いた。  オレはもう我慢ができなくなって、ついに泣いてしまった。ボロボロと涙をこぼしてその場にへたりこんだオレを、洋兄ちゃんが抱き上げてくれる。 「行こう、陸斗」 「ど、どこへ?」 「どこって、トイレだろ?」 「おばけ、ついてこない?」 「……さぁ?」  洋兄ちゃんが暗闇を振り向こうとするのをしがみつくことで制止て、オレはその肩に顔を埋めて怖い怖いと訴えた。  兄ちゃんの大きなてのひらが、オレの背を繰り返し撫でてくれる。 「陸斗、陸斗、大丈夫だから」  洋兄ちゃんにあやされながら辿り着いたトイレは、ちゃんと灯りが点いていて、学校行事で泊まったところのように虫がたかっているトイレではなく、ものすごくきれいなトイレだったけど、オレは怖くて怖くて中々洋兄ちゃんの腕から出ることができなかった。 「ほら、陸斗」  促されてオレは、ようやくトイレに入れたけれどドアを閉める勇気はなくて、ドアは開けたまま、洋兄ちゃんに入り口に立ってもらって用を足した。  中々涙が止まらないオレを、兄ちゃんは帰り道も抱っこして運んでくれた。  さっき女の泣き声が聞こえた場所をまた通らなくてはならない恐怖にぎゃん泣きしたオレをしっかりと抱えて、洋兄ちゃんはそこをダッシュで抜けてオレたちのテントまで戻った。  テント内にあった照明をぜんぶ点けて、それでも怖さは微塵もなくなってくれずに、オレは洋兄ちゃんのベッドに入れてもらった。  震えているオレに、洋兄ちゃんの両腕が巻き付いてくる。  ぎゅっと抱きしめられてもまだ隙間がある気がして、オレも兄ちゃんにしがみついた。 「陸斗、陸斗、大丈夫。幽霊が来ても俺が追い払ってやるから」  そんなこと一般人の兄ちゃんにできるはずがない。  そう思ったけど、兄ちゃんの声はしっかりと響いてオレを勇気づけてくれる。 「陸斗、絶対におまえをまもってやるから、安心して寝ていいよ」  洋兄ちゃんが囁く。  絶対にまもるよと繰り返されて、でも、オレの心臓はずっとドキドキしていて。  本当に本当に怖かったから、ずっとドキドキしていて。  ぎゅっと抱き込まれた洋兄ちゃんの胸に耳を押し当てると、聞こえてくる兄ちゃんの鼓動もオレに負けず劣らず早かったから。  自分も怖いのに、オレを慰めてくれてたのだと、わかった。  オレは、自分の心臓の音と、兄ちゃんの心臓の音を聞きながら、いつのまにか眠っていた。
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