第4章:エミールとの邂逅

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 オレは体を開いて、最初の刺突をかわした。さらに跳び退って、続く第二撃もかわす。 「おい待てって! パルミュラがなんだって? オレはスパルタクス人だぞ」 「どちらにしろ敵じゃないか! くたばれ、ローマの犬め!」  いや、そうなんだけど、そうじゃないというか……今はパルテミラの犬なんだよ。  なんて言っても、分からないか。話を聞いてもらえる状況でもない。  まだ粗っぽさはあるが、少年の剣技は、オレの命を脅かすに十分な域に達していた。  二本の短剣で、攻めて攻めて攻めまくる。左右で癖の違う剣筋は、見切ることを許さず、オレはほとんど反射だけでかわさなければならなかった。息つく暇もない。  このままでは遅かれ早かれ死ぬ。背を向けて逃げても死ぬ。ならば――  オレは大きく跳び退って、追ってきた少年に林檎を投げつけた。  少年は不意を突かれたようだが、短剣を鋭く一閃して林檎を両断した。  いい反応だ。だが見えた!  少年の勢いが弱まった、その一瞬。オレは少年の懐に飛び込み、両の腕を封じ込んだ。  そのまま突進をかまし、地面に組み伏せる。  剣だけじゃない。オレは総合格闘術(パンクラチオン)でも、同期の中では一番だったんだ。ちょうどこの前の狩猟祭でも、猪を素手で仕留めたばかりだ。飛び道具なんて卑怯なものに頼らず、正々堂々と戦ってな。 「落ち着けって。オレが一体なにをしたって言うんだい? 武器も持たない善良な市民を襲うなんて、酷いじゃないか」 「黙れ! 男の身でありながらテシオンにいること。それだけでも、お前に剣を向けるに十分な理由だ!」  腕の中で少年がもがいた。意外と力は強かったが、オレの固め技の前ではまったくの無力だった。幼精と言えど、力は人並みらしい。 「放せ畜生!」 「殺されると分かってて放す馬鹿がいるか。まずはお前が武器を手放せ。それからだ」  そう言うと、少年の体から力が抜けた。  やっと観念したか――そう思って、技を解いた時。腹の底から、重い衝撃が伝ってきた。 「……っ!」  少年が、オレの股間を膝で蹴りつけたのだ。  恐ろしく正確な金的だった。体罰で鍛えられたオレじゃなければ、一瞬で気を失っていただろう。流石にこれは痛…………くない! 気持ちいい!  くそ……スパルタ戦士をなめるなよ。こんなもの……こんなもの……  いつの間にか、少年はオレの腕から抜けて、止めを刺す構えを見せている。  オレはあまりの気持ちよさで悶えて、動けない。  絶体絶命。まさにその時―― 「エミール! なんてことをしているの!? その方は客人なのよ!」  それは宿の交渉から戻って来た、エクサトラの声だった。 「客人……?」少年は怪訝そうな顔を、声のした方へ向けた。「そんなわけないでしょう? たとえ外国の賓客であっても、テシオンに男が入るのは禁じられているはずです」 「ええ、でも女帝陛下がお許しになったのよ」 「陛下が!?」 「ほら早く剣をしまって! その方に謝りなさい!」  少年は短剣をしまったが、ブスッとした顔のまま謝る気配がない。  エクサトラは深いため息をつき、先に頭を下げた。 「すみませんでした。私がそばを離れてしまったのが、そもそもの過ちです。男の人がこの街を一人で出歩くには、問題が多過ぎますのに」 「なに、男の身でこの都に入るからには、これくらいの洗礼はあって当然だろう」  悪くない冗談を言ったつもりだったが、二人の反応は薄い。  オレは寝転がったまま、一つ咳払いをして、話を変えた。 「そこの少年が、パルミュラがどうのと言っていたが、なんのことだ?」 「パルミュラは、パルテミラの建国とともに滅びた旧い王国です。近年、その残党による破壊活動が活発になっていて、テシオンでも力のある者が少なからず殺されているのです」  エクサトラは黒髪の少年の頭をペチッと叩き―― 「この者は、テシオンに忍び込んだ旧パルミュラ勢力を排除する任務に当たっていました。あなたを襲ってしまったのも、パルミュラの男だと勘違いしてしまったからなのでしょう」  道理で……街の人たちがオレを警戒するわけだ。  ただでさえ男を見慣れていないのに、それが異国のカッコいい軍服を着た色男となれば、平気な顔をしてはいられないだろう。おいしい林檎を投げつけられるのも無理はない。  オレはなんとか体を起こし、相変わらずそっぽを向いたままの少年に、手を差し伸べた。 「あんた、エミールっていうんだよな? さっきはすまなかったな。幼精と人との違いはあっても、一応は男同士なんだ。仲良くやろうぜ」  ペチンッ!  手と手が弾ける、いい音がした。 「……男なんてのは、薄汚い欲にまみれた愚かな生き物だ。一緒にするな!」  少年の赤い瞳に宿っていたのは、憎悪や嫌悪といった、負の感情が凝縮されたような光。 「ちょっとエミール! いい加減にしなさいよ!」  エクサトラが叱りつけるが、すでに少年は背を向け、夜闇の中に走り去るところだった。  あとには陰鬱な空気が、亡霊のように、いつまでも消えずにわだかまっていた。 「すみません、何度も」と、かわいそうなエクサトラ。「あんなエミールは、私も初めて見ました。いつもは真面目で分別のある、いい子なのですが……」 「オレは大丈夫だ。スパルタクスのハゲ教官から浴びせられた罵詈雑言に比べれば、可愛いもんさ」  なんて言ってみたが、全然そんなことなかった。  被虐趣味という輝かしい称号を持つオレでも、あんな真っ向から存在を否定されては、流石に傷付く。肉体的な痛みはいくらでも我慢できるが……  エクサトラが懸命に探してくれたおかげで、この日は無事に宿が見つかった。  他の宿に比べれば質素な所だったが、質実剛健な生活が染み付いたオレには、これくらいがちょうどいい。市場からそれほど離れておらず、路地を抜ければ娯楽施設が並ぶ通りに出る。なにをするにも、不自由はなさそうだ。もっとも、当分は一人で出歩けないのだが。  部屋に辿り着くや否や、オレは邪魔な鎧を床にかなぐり捨てて、寝台に華麗な飛び込みを決めた。  はっ、しまった……体を洗うのが先だ。  そう思い直すが、極上の寝心地を覚えてしまった体は、起き上がることを完全に拒否している。こればっかりは、抗えない。  ―――男なんてのは、薄汚い欲にまみれた愚かな生き物だ……  脳裏にこびりつく、エミールの言葉。  何度も現れては、オレの胸を抉っていく。そろそろ風穴が開きそうだ。  ―――男なんて……男なんて……男なんて……  ああ、その通りさ!  所詮はオレも、欲望に忠実に生きることしかできない、弱っちい生き物だ。  けどよ……それがなんだってんだ!?  男の欲望が薄汚いだなんて、一体誰が決めたんだ!?  男に生まれるか女に生まれるか、はたまた蟻んこに生まれるかも自分では決められないのに、なんでそんな言われ方をしなければならないんだ……!? 蟻んこだって、必死に生きてるんだぞ!  昂りかけたオレの心を鎮めたのは、夜のしじまに優しく響く、竪琴の音だった。  耳を澄ませば、少年らしい甘い歌声もかすかに聞こえる。  隣の部屋からだ。そこに泊まっている幼精は、そこそこ名の知れた吟遊詩人(アオイドス)らしい。廊下で少しだけ話をしたが、各地を渡り歩いた経験からか、まったく男見知りしなかった。  ……いい声だ。  エミールの言う通りだ。やっぱり、彼らはとても同じ男とは思えない。オレが大人になって失ったものを幼精は持っていて、オレが少年期に持ち得なかったものですら、彼ら幼精は持っている。  オレは心底、君たちが羨ましい。  だからこそ惹かれるのかもしれない。かつての自分に重ね合わせて――  こんなオレにも、美少年ともてはやされた時期があった。  訓練生時代、将来有望な戦士として知られるよりも先に、むさ苦しい訓練所に咲く花として、オレの名はその界隈に知れ渡っていた。年長の訓練生から告白を受けたことは一度や二度ではなく、そのうちの何人かは、今やオレの忠実な部下になっている。  それから、今ではすっかり見る影もないが、オレは清廉な心を持った少年でもあった。  男は欲にまみれた愚かな生き物――オレも当時は、そんな風に思っていたのかもしれない。一番身近な男がまさにそうだったし、歴史を顧みても、酒色に溺れて破滅した男は枚挙にいとまがない。子供心に、男が醜く愚かなもののように思えたのだ。  だからオレは、穢れを知らぬ純粋な少年であり続けたいと願い、周りもそれを期待した。  しかし時の流れとは残酷なもので、オレはほんの数年のうちに、少年の輝きを失った。  声、容姿、体つき……称賛の的となっていたあらゆるものが、男のものへと変貌していく。自分が自分でなくなっていく。それはもう、抗いようのない運命だった。  あの苦しみは、大人になれない幼精には一生分からないだろう。  おお、神よ! どうせ奪い去るのなら、どうして私に美を授けたもうたのか!  おお、神よ! あなたはなんて酷い奴なんだ!  それからしばらくは、荒んだ日々が続いた。  厳しすぎた訓練をサボっては、遊び呆け、多くの人を失望させた。  でもそんな中でも、あの人だけはオレを見放さなかったんだ。  家に押し掛け、オレを訓練所に引っ張り込むこと数十回。オレはそのありがたみも知らずに、胸筋大魔王なんてあだ名をつけて、馬鹿にしていたっけな――ソグナトゥス先生。  結局、なんで立ち直れたんだっけ。  とにかく、ソグナトゥス先生の熱意に突き動かされ、訓練に打ち込むうちに、悩みなんて吹き飛んでしまった。
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