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第7話:異国の旅人
武蔵坊は少年の寝言で目が覚めた。
惨劇の夜が明けて、辺りには木漏れ日が点々と落ちている。
あの後、二人は夜通し逃走を続け、ここ武蔵国にまで辿り着いた。それについて来れた影狼の体力には驚いたが、やはり人間。休憩に入った途端、死んだように眠ってしまった。
風で飛ばされたのか蹴飛ばされたのか、布団代わりにかけてあげた鴉天狗の着物は、どこか遠くに飛んでいた。今後のことを考えれば無い方が良い物なのだが、武蔵坊はどこか残念に感じた。
仕方なかったとはいえ、自分は鴉天狗を捨てたのだ。
代わりに救い出したつもりの影狼も、これから先どうなるか分からない。
本当にこれで良かったのか?
一生、幕府の目に怯えながら生きていくのなら、あのまま鴉天狗に残った方が良かったのでは?
武蔵坊は次々に浮かぶ負の思考を振り払った。
とにかく、影狼は自分の足でここまで来たのだ。こちらの思い過ごしでその足を引っ張るような真似はしたくない。
「おはよう……」
「?」
また寝言だ。
影狼は今、どんな夢を見ているのだろう。悪い夢ではなさそうだ。
それで良い。
うんと眠って、嫌なことは忘れてしまえ。
影狼が起きるまで、武蔵坊はまた眠ることにした。
ぼんやりとした意識の中で、人の気配がした。
「おはようゴザマス」
耳に入ったのは、なまりのある、聞きなれない声――
「……!? うわっ!?」
目を開けた瞬間、武蔵坊は思わず飛びすさった。
無理もない。見知らぬ男が、顔を覗き込んでいたのだ。さらにはその男の容貌が、武蔵坊を驚かせたようだ。
淡い緑色の髪に、橙色の瞳。
こんな人は、今まで見たことがなかった。
「父さん、初めましてでそれはないよ」
男の後ろからは、子供の声が聞こえてきた。親と違って流暢だ。しかしこちらの方も、緑髪であった。
未知なる遭遇で、武蔵坊はただあっけにとられるばかりである。
「起こしてゴメンナサイ。ところで、これはアナタのモノデスカ? アッチに落ちてましたヨ」
見ると、男の手には鴉天狗の着物が握られている。紛れもなく先程なくしたものである。わざわざ拾ってくれたのだろうか。
この者たちは、妖怪でも悪い者でもなさそうである。
しかし受け取るわけにはいかない。鴉天狗の仲間だと思われては困るからだ。
「いや、オレは知らないな」
「ホントに!?」なぜか男は嬉しそうだった。「じゃあもらっちゃうヨ」
ただ着てみたかっただけのようだ。武蔵坊の制止も聞かず、男はそれを着てしまった。
―――冗談じゃない!
これではすぐ幕府の目に付いてしまう。下手をすれば、彼自身も危ない目に合うかもしれない。しかしなんと言えば――
良い人に違いないが、油断のできない男だ。
「やめときなって、やっぱり父さんに日ノ本の服は合わないよ」
―――少年よ、よくぞ言った!
そう思うと同時に、武蔵坊はピンときた。この親子はどうやら日ノ本の人ではないようだ。着ているものも、なかなか変わっている。
「君らは、日ノ本の人じゃないのか?」
「あー、うん。言っても分からないと思うけど、メランっていう南の島国から来たんだ。僕はいちおう、日ノ本生まれだけどね」
そうか――道理で、子供の方は流暢に日ノ本の言葉を話すわけだ。
「驚かせて本当にごめんなさい」軽く頭を下げると、少年はポンと手を叩いた。「そうだ、ちょうどお昼にしようと思ってたんだ。お詫びと言ってはなんですが、よかったら一緒に食べませんか?」
「いいのかい? それじゃあ、ありがたく頂くとするか」
そういえば、昨日の夜から何も食べていない。
見ず知らずの相手からの誘いだが、武蔵坊は快く応じた。彼らへの警戒心はとっくに解けていたのだ。
それにこれから先、食べ物にありつける保証はない。幕府の手先でもない限り、断る理由などなかった。
ということで、影狼を起こすことにした。
やはり影狼の反応も似たようなものだった。武蔵坊ほど驚かなかったが、初めて見る異国の人に興味津々であった。
「へぇ~、メラン諸島か」影狼は、サンドイッチというものを頬張りながら言った。「聞いたことはある。確か西洋の人と、元々住んでいた人たちが一緒に暮らしてるとか」
鴉天狗で育っただけあり、影狼はこういった知識も持ち合わせていた。褐色の肌を持つこのメランの親子が、後者である事にも気付いている。
「すごい! よく知ってるね。ところで、君はなんて名前なんだい?」
問われて、影狼はやや不安げに武蔵坊の方に目をやる。実の名前を言って良いのか、迷っているようだ。
武蔵坊は代わりに答えてやった。「こいつは影狼だ。オレの方は武蔵って呼んでくれ」
特に気にすることは無いだろう、と武蔵坊は思った。鴉天狗という事さえ隠せば、問題ないはずだ。名前を偽っても後々面倒である。
「良い名前だね。武蔵さんは国の名前がそのまま付いてるし、やっぱり日ノ本の名前はかっこいいよ。僕の名前はヒュウ。父さんはヒューゴだ。覚えやすいでしょ」
「確かに、ゴが付いただけだもんな」
気さくな少年のおかげで、武蔵坊たちはようやく人心地付くことができた。
二人だけの逃避行に仲間が加わり、これから行楽にでも行くような気分であった。
敷物の上に並べられた食べ物は、どれも初めて見るものだ。日ノ本の食材を使っているのかもしれないが、山村で肉ばかり食べて育った武蔵坊にはさっぱり分からない。分かるのは、この親子が相当裕福である事だけだ。
「ほら、遠慮しないで食べなよ」そう言って、ヒュウは辺りを見回す。「そういえば、さっきから気になってたんだけど、二人は何も持たずにこんなところまで来たの?」
―――また試練がやって来た……
この少年は、武蔵坊たちの置かれた状況に気付き始めている。その上での気遣いなのだろうが、こちらからすれば心臓に悪い。本当のことは言えない。
「……心配かけると悪いから言えなかったんだが、実はオレたち……甲斐国から逃げて来たんだ。幕府の悪い奴らがオレたちの村を焼いて、食べ物を全部持って行っちまったから」
幕府に罪を着せてみた。
武蔵坊は己の下手な作り話に吐き気を催したが、意外にも相手は同情してくれた。
「それは辛い事を……思い出させてしまったね。まさか幕府がそんなことをするとは」
「ま、まぁ……一部の奴はな」
「そうなんだ……大変だったね」ヒュウは少し考え込むと、ふむふむといった様子でうなずいた。「ねぇ、もし他に行くあてがなかったら、僕らの町に来てみない?」
「え?」
二人の声が重なった。
食事に夢中だった影狼も、目を丸くする。
「僕らは河越って所に住んでるんだけど、そこに頼りになる知り合いがいるんだ。紹介してあげるから一緒に行こうよ」ヒュウの目は、輝いていた。「いいよね、父さん?」
「オーケイ、まかせて!」
ヒューゴの方も、人助けをすることに喜びを感じているようだ。親指を立てた拳を、息子に突きつける。
なんて良い人たちなのだ――これで幸成との約束が果たせる。
だが武蔵坊は、もう一方の抑えつけてきた思いがこみ上げてくるのを無視できなかった。
「行ってこい影狼」
「え?」送り出すような武蔵坊の言葉に、影狼は戸惑いを見せる。「行ってこいって……武蔵も行くでしょ?」
「いや、悪い。一緒には行けない。オレにはどうしても行きたい所があるんだ」
「行きたい所? ……なんで今になって?」
「オレがここまで来たのは、お前のことを頼まれたからだ。けど今はもう、ヒュウたちがいる。オレがいなくたって平気だろ」
影狼にはまた辛い思いをさせてしまうが、武蔵坊にはまだやり残したことがある。このまま影狼と一緒に行って、めでたしめでたしという訳にはいかないのだ。
「そ、そんなことないよ……どこに行くかは武蔵の自由だし、これからも助けてくれとは言わないけど、今は他に行く所なんてないでしょ?」
「大滝村だ。村の仲間に会いに行く」
これは嘘だ。本当の行先を言ってしまえば、影狼は自分を追ってくるに違いない。それではせっかくの幸運が台無しになってしまう。
影狼には普通に暮らしてもらえば、それで良いのだ。
「でもそこに戻ったら、幕府の人たちが来るかもしれないよ」
「大丈夫だ。オレは妖……」あわてて口をつぐんだ。同じ轍は踏まない。「まぁあれだ。オレは簡単には死なない。お前が元気にしてれば、また会えるさ」
それきり、会話は途絶えてしまった。
影狼は食べ物を見つめたまま、物思いにふけっている。口は動いているが、なかなか飲み込まない。
メランの親子に気を遣わせてしまっているのが、なんだか申し訳ない。
図らずも最後となってしまったお食事会は、とても静かだった。
「本当に、一緒に来なくていいの?」
食事を終えて立ち上がった武蔵坊に、ヒュウが聞き直す。
「ああ、気持ちは嬉しいけど、オレは一人でも生きていける。代わりにオレの分まで、影狼を助けてやって欲しい」
「武蔵さんがそう言うなら……」
「かしこまりましたでゴザル」
ヒュウが旅のお供にと、小包に入れた食料を少し分けてくれた。親切な少年である。
武蔵坊は己の見込みが正しかったことを実感した。この人たちになら、影狼を任せられると。
「身勝手だとは思うが、オレにはオレの生き方がある。分かってくれ」
影狼がうなずく。「短い間だったけど……ありがとう」
浮かない顔に、少しだけ笑顔が混じっていた。
武蔵坊に心配をかけまいとしているのだろうか――
「それじゃあ……さよならだ。武蔵国の河越だったか? いつになるかは分からないが、用が済んだら必ずそこに行く。また会おう」
武蔵坊はきびすを返した。
メランの親子、ひいては影狼をも騙したことに後ろめたさはあるが、武蔵坊はためらいのない確かな足取りで山道を進む。
全てはやり残したことをやり遂げるため。鴉天狗を救うため――
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