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「帰ろう」
「うん、帰ろう」
そうは言ったものの家に戻ればふたたび睦あい、少し眠って遅めの朝食をとった。
シーツとついでに昨日の服も洗濯し、部屋中を掃除した。料理はさほどでもないが掃除は得意な碧が佐良にてきぱきと指示を飛ばす。この構図はどこかで見たことがある。
うんざりするほど強い日差しのおかげで洗濯物はあっという間に乾き、すべてをもとどおりに整え、荷物をつめた。思ったよりも早く出られそうだ。日曜日、町を出るバスは二時間に一本だった。
佐良は窓から遠く広がる海を見た。空は晴れ渡り、カーブを描く水色の水平線が見渡せる。
「佐良」
奥の部屋から碧が顔を出した。
「準備できた」
「行こうか」
カーテンを締め切り、暗くなった部屋には無人になる前の静けさが降りはじめる。
玄関で靴を履き立ち上がった。碧が戸を何度か押し引きして開き、たたきにさっと外光が差しす。佐良は薄暗い家の中を見渡した。
ふと見ると、正面にある柱の上のほうに色褪せと釘跡が残っていた。位置的におそらく、時計が掛かっていたのだろう。今まで気づくことはなかった。
「佐良」
戸口から碧が呼び、佐良の視線の先に目を向けた。
「ああ……それ」
碧が佐良の隣に立つ。
「振り子時計があったんだ。じいちゃんが大事にしてた」
「あの時計店の?」
「うん。年季もので何度も直して使ってた。ばあちゃんが亡くなって、次の年にじいちゃんも逝って、とうとう止まっちゃった。今は右の部屋に置いてある。じいちゃんが書斎にしてた部屋」
碧が懐かしそうに微笑んでいる。長い間、時が刻まれていた時計。その時が流れていたこの家。佐良の目の前に幼い碧が浮かび、やがて出会った頃に変わり、隣にいる碧に焦点があった。
「佐良にももう、おんなじ時間が流れてるね」
「そうだといいな」
佐良は碧を抱き寄せた。碧の口元が柔らかなカーブを描く。その上に唇を重ねた。
佐良はバックパックを背負い、薄闇に向かい目礼し玄関を出た。足元から蒸し暑さに包まれる。夏の真ん中の芳しい匂いがした。碧が玄関に鍵をかけ、佐良の手を取る。
歩むごとに水平線が見えなくなっていく。振り返ると青々とした生垣に囲まれた古い家が静かに時を止め、佇んでいた。
ふたりは潮風が吹き抜ける坂道を下っていった。
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