1 引っ越しの朝

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1 引っ越しの朝

 六月の最初の土曜日は晴天で、梅雨は地平線の彼方へ蒸発しまったのかと思うほど暑かった。  佐良(サラ)怜一(リョウイチ)はリビングのソファに座り長い足をだらりと投げ出して、雲ひとつないまっさらな青い空を見ていた。朝早くに起きてしまい、なにも手につかず落ち着かない。テーブルのマグカップに手を伸ばし、口をつけてから空だと気づいた。気を紛らわそうと淹れたコーヒーも何杯目になるかわからない。  今日から最愛の恋人、小山(コヤマ)(ミドリ)と住む。  碧の使う家具や雑貨類は準備万端で、荷物は宅急便で送られ、碧もまもなくここへくることになっていた。  かりそめの同棲生活を送ったことはあったが、本格的に彼との生活が始まる。緊張と高揚、若干の不安で満たされていて、ちょっと傾けただけでもこぼれてしまいそうだ。表面張力でなんとか保っている。遅いなと棚に置かれた木製フレームのアナログ時計を見たが、まだ約束の一時間以上前だった。この時計は碧が選んだ。  年下の碧と出会ったのは二年ほど前、梅雨曇りの日だった。小さな海辺の町での出来事だ。  佐良は恋人を失った失意から立ち直れず疲れ果て、数ヶ月を経て仕事も住んでいた部屋も手放すことにした。見かねた親友から取り壊す寸前のアパートを紹介され、二ヶ月だけ住む予定で来たばかりだった。  寂れた酒屋に現れた碧はTシャツにジーパンという人間以外には見えない服装をしていたのに、しなやかな猫を思わせた。そっけないのに知らぬ表情で細く美しい尾を振り、佐良はあっけなくおびき寄せられた。ひと目で頭の中に住み着き離れなくなった。  碧は元は祖父母の家だったという高台の古い一軒家にひとり来ていた。  佐良は碧の元に通いつめ、彼が振り向いた朝は突然に訪れた。  眠れずに夜明け前の町を浜辺へ向かって歩いていると背後に碧がいた。それまで自分から話すことはなかった碧がぽつぽつと言葉を投げかけ、気がつくと隣にぴたりと寄り添っていた。空が薄らみ明けていく中で、しなやかな彼の身体は佐良の腕に収まった。  佐良は碧の住む街へ引っ越し、元いた会社に出戻り自宅で仕事をする身になった。それが今いるマンションだ。  大学を休学していた碧は翌年無事に卒業し、この四月に就職した。  碧の引っ越しが切りのいい三月にせず六月にずれ込んだのは、碧がどうしても給料がもらえるようになってからにしたいと言い張ったからだ。
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