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―『生きる』の定義とは  理論的に言えば生命活動が持続している状態。もっと言えば、心臓が動いていれば『生きて』いる。    だが、本の中では誰かの記憶に居る状態。心臓が止まり、肉体が灰になろうとも、誰か画憶えている限り、『生きて』いるという。  それとともに、テレビの中では好きなことを思いっきりできている時間、心がこの上ないほど満たされている状態を『生きて』いるというのだ。 私はどうなのだろう。  心臓は動いている。これは確かだ。誰かの記憶の中にもいる。親族がいる限り、これが揺らぐこともないだろう。  ならば、これは『生きて』いる?  否。  私は生きてはいない。否応なしに動く心臓があっても、煩わしい人だという記憶が誰かにありつづけても、私は生きてなどいない。  液晶の中の言葉が真実ならば、私は『生きて』いるわけが無いのだ。  『死』の対義語は『生』ではない。私は決して死にたいのではないのだ。ただ、生きたくないだけなのだ。この世を歩き続けるのに疲れ果ててしまっただけなのだ。  生きながら死にゆく私は、どうやって進めばいのだろうか。前を向くことさえも恐ろしくて堪らないというのに。涙は乾きなど知らぬとでもいうように溢れ続ける。手足にきざまれたものよりも深い傷が自分でも見えないところにある。救いを乞い伸ばした手は虚無を掴み、形になどできない感情は共感を得ることすらできやしない。  何度『生』の意味を考え、『死』を望んで来たか。けたたましく鳴りながら降りる踏切の先を、人間がゴマ粒のように見える柵の外を、持つ手の震えが止まらず揺れ動くカッターナイフを、何度望んできたか。  そうだ、いっそ消えてしまおう。だれも知らぬ所へ行こう。『生』も『死』もない、なにもない所へ。ここに居続ければ、『生きる』ことも、『死ぬ』こともできないのだから。みんなが私を忘れた頃、ひっそりとこの世からもいなくなろう。きっと、それが1番なのだから。  思考回路の波が揺れる。  今日も、生きることなどできそうもない。
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