サイドストーリー:ある獣人のお話

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「いい加減にしろ。  僕を助けて優位に立ったつもりか?会話くらい付き合って当然だとでも?  助けてもらったことは感謝しているが、僕はお前が好きじゃない。だからもう話しかけてこないでくれ。迷惑だ」  逆に今度は僕の方がそう一方的にまくし立ててやると、思わぬ言葉だったのか、奴が目を見開いて瞬いた。  それを見てふんと鼻を鳴らし、背を向ける。  ここまで言えば、いくらなんでも大人しくなるだろう。  それでも分からなければ正真正銘の馬鹿者だ。  背を向けてから少し言い過ぎたかと胸がチクリと痛んだが、そんなことを気にできるほど繊細な心があるのなら、そもそも僕の態度を見た時点で気づいただろうから、やはりこれくらいでなければ伝わらなかったのだと自分に言い聞かせる。  そうして若干の後味の悪さと引き換えに、ようやく静寂を得ることができた…かのように思えた。  しかしすぐに、またもや僕の考えは甘かったのだと思い知らされることになる。  というのも大人しかったのはその日だけで、僕の後ろめたさは何だったのか、翌日は何事もなかったかのようにまた笑顔を引っさげて、さっそく朝から話しかけてきたのである。  いったい何を考えているのかさっぱり理解ができず、愕然を通り越してもはや固まる僕の手を引き、本当に自分で言ったとおり、食べられるものとそうでないものとの区別を律儀に説明し始める奴を見て、どうやら正真正銘の馬鹿者だったらしいことを理解する。  流石に仕事中は黙っているものの、隙あらば絡んでくるので鬱陶しいことこの上ない。  挙げ句には僕に名前がないことが分かると、勝手にギンジという名前までつけてきた。  名前なんて別に必要なかったし、そもそもこんな奴につけられるなんて冗談じゃない。  けれど何かを見たり聞いたりすると、無意識に理由や原理を考えてしまう性格が災いして、つい名前の由来を尋ねたが最後、初めて僕がまともな返事を寄越したのがよほど嬉しかったのか、まるで晴れて友人になったとでも言うかのように肩を組んできて、さらに距離を詰められてしまった。  尻尾の先まで毛が逆立ったのは生まれて初めての経験である。  もしかして、黒髪の連中は皆こんな距離感なのだろうか。  ともあれ即座にその腕を払い落としたことは言うまでもないことだが、答えを聞いてたちまちガックリと肩が落ちそうになった。  曰く、由来は銀色の尻尾らしい。  単純すぎて涙が出そうだ。  それでも、ならば「ジ」は何なのかとなけなしの気力を振り絞って尋ねると、「『ギン』ときたら『ジ』だろ?あ、俺の名前はトウジって言うんだ」などと、無駄にいい笑顔でわけの分からない答えを返してきたために、今度こそ肩が落ちた。  こんな馬鹿者に理由を尋ねて、どうしてまともな答えが返ってくると思ったんだ、僕は…。  生まれて初めて自分の探究心を忌々しく思った。  頭の痛いことに、そんな日々はそれからもずっと続いた。  ことある毎に、やれこれはまだ食べられるだとか、あれが好きだこれが嫌いだ、ここはもっと適当にやってもばれないだとか、それは嬉しそうな笑顔で今まで以上にひっきりなしに話しかけてくる。  時にはどこからか今まで食べたこともないほど美味しく、まともな食べ物を持ってきて分けてくれることもあったが、さも当然のように隣に腰を下ろして食べながら喋り始めるのだから閉口する。  せめて食べるか喋るかどちらかにしろと言ってやりたい。  トウジは思ったとおりの馬鹿者、いや思った以上の大馬鹿者で、世の中には馴れ合いを好まず、そっとしておいて欲しい者がいるということがさっぱり分からないらしい。  完全無視を決め込んでも、幻聴でも聞こえるのか気にせず喋っているし、ならばと直接的に否定してもやっぱり気にした様子もなく、むしろ楽しそうに言葉を返してくる。  これには、もはや病気なのかもしれないといっそ憐れみすら覚えたほどだ。  無視しても駄目、拒否しても駄目。  なら僕は一体どうすればいいのだ。  しかもあろうことか、周りからは友人同士が仲良く喋っているように見えるらしく、何やら微笑ましい視線を向けられることが多くなったのだから、始末に負えない。  お前達はいったい何を見ているんだ。  その黒目は、本当にちゃんと見えているのか。  ここは前いた場所のように食事を台無しにされたり、影で暴力を受けたりということはなかったが、これはこれで新しい嫌がらせのように思えてくる。  ただ驚くべきことに、トウジは色々なことを知っていた。  食べ物の見分け方や仕事の効率的な進め方はともかく、ここで生まれ育ち、出たことがないというのに、あたかも見てきたかのようにごく普通に外のことまで語る。  さらには読み書きや簡単な計算もできると言うものだから、信じられず、つい独学で得た算術の問題を出してみたんだが、本当に解かれてしまって愕然とした。  散々見下していた相手に、少しだけとはいえ自信のあったもので先を行かれたのだ。  そのショックたるや、間違いなくこれまでの人生で一番の大事件だったと断言できる。  だというのにトウジからは「お前凄いな~」などと感心したような反応が返ってきたため、嫌味かと睨みつけてやるも、この馬鹿にそんな高度なことなどできるはずもないから、きっと本心なのだろう。  だから「お前ほどじゃない」と皮肉たっぷりに返してやった。  もちろん皮肉としては伝わらなかったが。  そんなこともあって、非常に不愉快なことだが度々トウジから勉強を教わるようになった。  案の定、喜色満面で尻尾を振るかのように飛び寄ってきたので甚だ辟易するも、すべては目の前のこいつを見返してやるためなのだと我慢する。  この頃には仕事中に倒れることも、精根使い果たすこともなくなっていたため、月明かりの下、寝る前数刻の小さな勉強会はほぼ毎日続いた。  大変遺憾だが、倒れなくなったのも、こうして夜起きていられるようになったのも、トウジのおかげだということは認めざるを得ない。  僕は素直な性格からはほど遠いにしても、事実を事実として受け止められないほどねじ曲がってはいないつもりだ。  だがある日、ちょっとした事件が起きた。  製鉄所の裏手に積み上げられたゴミ山の中から、比較的綺麗な板や布を探していたときのこと。 「何だこれは?」  折り悪く兵士達に見つかってしまった。  とはいえすでに日は落ちているし、相手は三人だけ。  奴隷が決められた場所以外をうろつくことは禁じられているものの、難癖をつけられる前に逃げれば特に問題はない。  ただ悪いことに、奴らがまず目をつけたのは僕自身ではなく、荷物の方だった。 「汚い文字みたいなのがたくさん書いてあるな」 「文字だと?俺だって書けないのに、獣風情が?」 「お前は読みだって怪しいだろうが」  手に持った松明に近づけてしげしげと眺めたあと、何がおかしいのか、そう言って馬鹿みたいに大声で笑い出す兵士達。  それを見て、思わず歯軋りしてしまう。  この日はいつものように勉強会を終えたあと、使っていた学習帳が足りなくなってきたからその補充に来ていた。  もっとも学習帳といっても、ボロ布や薄く割いた板を束ねただけのお粗末極まりないものだ。  それでも今まで学んだことを書きまとめた大切なもので、段々と厚くなっていく様を見るのは、僕のささやかな楽しみの一つだった。  だが、今はその学習帳が兵士の手にある。  いつもなら肌身離さず持っているのに、今日は素材となりそうな綺麗なものがなかなか見つからなかったので、汚れないようにといったん置いて探し回っていたんだが、裏目に出たらしい。  くそ、どうしてこんな時間にここにいるんだ!  今は巡回の時間じゃないはずなのに…。  狼狽えたのもつかの間、兵士達の臭い吐息と赤ら顔からすぐに理由を把握する。  おそらく前の巡回をサボって今まで酒でも飲んでいたのだろう。  僕はもちろん酒など飲んだことはなかったが、それが自分の思考力や判断力を低下させる効果があることは、知識として持っていた。  時には身体を壊すということも。  なのに何故わざわざそんなものを対価を支払ってまで取り入れるのか、まったく理解に苦しむ。  もっとも今後も飲む機会なんてないだろうし、飲みたいとも思わないから、理解する必要もないのだが。
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