サイドストーリー:ある獣人のお話

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 そんなことより、今はこの状況をどう切り抜けるかだ。  あとでいくらでもできる反省と考察はひとまず脇に置き、即座に頭を切り替える。  今の知性のかけらもない会話を聞く限り、学習帳の中身には何の興味も持っていないことは間違いない。  奴らが望むのは、今までの傾向から考えてもこちらが悔しがる様を見ることか、難癖をつけて暴力を振るうことかのどちらかだろう。  ならば取られたものに未練を見せず、ひとまずは暴力を振るわれる前に逃げて、奴らが手に持ったものに興味を失って投げ捨てでもしたあとで回収すればいい。  素早くそう判断し、さっそく踵を返す。  ところが。 「とりあえず、燃やしちまうか」 「な…!?」  続けてそんな声が聞こえて来たので、思わず足を止めてしまった。  布や木ばかりとはいえ、そこそこの量が束になっている学習帳を燃やすにはある程度の時間がかかるし、燃えたままにしておけば火事にもなりかねないから、後処理だってしなければならない。  それをわざわざ燃やそうとするなんて、どれだけ暇なんだ、こいつらは…!  しかし、血相を変えて振り返った僕の視線の先に見えたのは、燃え上がる学習帳ではなく、 「へっ、やっぱり大事なもんだったか。全然逃げないからおかしいと思ったんだよ」  ニタニタと意地悪な笑みを張り付けた兵士が、勝ち誇ったようにそれをぷらぷらと振っている姿だった。  やられた…!  どうやら、最初から見抜かれていたらしい。  今更ながらに、自分は噓をついたり取り繕ったりすることが苦手だったことに気づく。  なにせ、あのトウジにすらすぐに悟られてしまうくらい顔や態度に出やすいのだ。  演技で相手を出し抜くことなどできるはずがなかった。 「…っ」  己の間抜けさに対する怒りと悔しさで再び歯がみする。  すると案の定、そんな僕の表情は望みどおりのものだったのだろう。  奴らが愉快そうに醜く顔を歪ませた。 「このまま目の前で燃やしちまってもいいんだが、もう少し楽しめそうだからな。こいつは預かっとく」 「こんな汚いものが大事だなんて、やっぱ獣の考えることは分からんぜ」 「生意気に人間様のまねごとをするからこういうことになるんだよ」  そして学習帳を持ったまま、耳障りな声で笑いながら背を向けて闇の中へと消えていった。  くそ…!  その背中を、僕はただ黙って睨みつけてやることしかできなかった。  三対一ではまず取り返すことなんてできないし、仮に取り戻せたとしてもあとが面倒なことになる。  だから悔しいけど、どう考えてもこれが最善の判断だ。  だいたい、それを持っていって何をしようというんだ。  別に素材はたくさんあるんだから、また新しく作り直せばいいだけの話じゃないか。  そんなことも分からないなんて、本当に馬鹿な奴らだ。  自分に言い聞かせるように、奴らの愚かさ加減を鼻で笑い飛ばしてやる。  それでも、このやりきれない気持ちは少しも晴れてくれなかった。  …帰るか。  仕方なく、長いため息をついて来た道に向かって歩き出す。  途中でいつの間にか駆け出していたことにも気づかないまま、僕は行きよりも暗く寒々しい感じのする道を、息を切らせながら戻っていった。 「ずいぶん遅かったな~。何かあったんじゃないかって、皆で心配してたんだぞ?」  そうして寝床にたどり着くと、予想どおり、今は一番会いたくない顔がさっそく僕を出迎えてくれた。  すでに到着前に呼吸の乱れは整えていたが、思わずまたため息が出てきそうになる。 「…ふん。  ゴミ山を漁りに行っただけなのに、いったい何があるって言うんだ」  それをなんとか堪えつつ、努めて何でもない風を装って言葉を返しておく。  しかし僕の意図とは裏腹に、途端にトウジが心配そうな顔になった。 「もしかして、ホントに何かあったのか?学習帳の材料はどうしたんだよ?」  それを聞いて、そういえば元々僕は学習帳の補充をするために出向いたのだと思い出す。  なのに材料どころか当の学習帳自体も持っておらず、手ぶらで戻ってきたのだから、何かあったと言っているようなものだ。  お節介なトウジが声をかけてくるのも当然のことだった。  どこまで取り繕うのが下手なんだ、僕は…!  自分の迂闊さに思わず舌打ちしそうになる。 「…途中で兵士の奴らに見つかって、学習帳自体を取り上げられただけだ。  また作り直せばいいんだから、別に大したことじゃない」  すでに何かあったのではないかと思われている以上は、下手に誤魔化したところでボロが出るだけ。  そうなればますます惨めになるだけだし、これ以上この話をしたくもなかったので、先ほどの出来事をごく簡潔にまとめて殊更淡々と説明する。  これならどんなに演技が下手くそでも、いつものとおり無愛想なだけに見えるだろう。  ただそこでふと、自分が不可解な状態であることに気づいた。  …いや、そもそも僕はどうしてこんなに動揺しているんだ?  確かに兵士達の振る舞いには腹が立ったが、別段今日に限ったことではないし、これまでにも理不尽なことはたくさんあった。  そもそも奪われた学習帳だって、さっき自分で言ったとおりボロを重ねただけのもので、材料なんてそこら辺に転がっているのだからいくらでもまた作り直せるのだ。 「大したことじゃないって…。お前、いつもあんなに大事そうに持っていたじゃないか…」 「…うるさい。今はお前と喋りたい気分じゃないんだ。静かにしてくれ」  ともあれ狼狽えるトウジの言葉を遮り、しかし僕の方も内心では大いに戸惑いながら、遠巻きにこちらの様子を窺っている周囲の視線から逃げるようにして背を向ける。  これではどう見ても何でもないようには見えなかっただろうけど、このまま話していたら、せっかく鎮めた気持ちがまたぶり返して、余計なことを口走ってしまいそうだった。  どうやら僕は、学習帳を取られたことが思っていた以上にだいぶショックだったらしい。  今まで何かに執着することなんてなかったというのに、一体どうしてしまったのか。  トウジの馬鹿が移ったのかもしれないな。  うん、きっとそうだ。そうに違いない。  何やら深みにはまりそうな考えを強引に打ち切り、早々に横になる。  頭がこんがらがったときや嫌な気持ちでいっぱいになった時は、さっさと寝てしまうに限る。  もちろん、目覚めたときにはすっかりと気持ちが晴れているなんてことはまずないんだが、少なくとも今みたく鬱々とした気持ちで頭を抱えているよりはよほどいい。  それにトウジの馬鹿じゃあるまいし、寝ているのにわざわざ話しかけてくる奴もいないだろう。  実際、その後も度々背中に視線は感じたものの、誰にも話しかけられずに済んだ。  ただこれもまた珍しいことだったが、目を瞑るとあの兵士達のにやけ顔が浮かんできてイライラしたり、それが消えたと思ったら今度は学習帳を取り戻す方法を考えていたりと、終始目が冴え渡り、一向に眠くなる気配がなかった。  …本当にいったいどうしたっていうんだ。  ここに来る前はこんなこと一度もなかったし、今回の件だって鼻で笑ってすぐに忘れていたはずだ。  やはり直情的で気持ちと行動が直結している、単純馬鹿のトウジに影響されたとしか考えられない。  朝起きたら、さっそく文句を言ってやろう。  もっとも、どうせまたニコニコと笑いながらとんちんかんな答えを返してくるのだろう。  文句や嫌味を言われても嬉しそうにしている奴なんて、トウジくらいのものだ。  その時のことを想像して再びため息が出てくる。  まあ、それを分かっていてなお文句を言おうとしている僕も僕なんだが、さっき取ってしまったいささかつっけんどんな態度に対して、フォローをしておきたいという意図もまったくないと言えば噓になるので仕方がない。  ところがそんなことを思っていたものの、あろうことか眠気がやってきたのは明け方だった。
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