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そのくせ身体は睡眠を欲していたのか寝覚めは非常に悪く、仕事開始ギリギリまで眠っていたために文句を言う時間は取れなかった上に、さらには突然僕に割り当てられる仕事が増えるという災難にまで見舞われ、ますますそれどころではなくなってしまう。
別に、こういった兵士の気まぐれや意地悪は今に始まったことではないとはいえ、昨晩の怒りがまだ残っていた中でこのタイミングの悪さである。
それにそもそも現状でもすでにかなりの重労働なのだから、これ以上増やされてもかなわない。
なので今度ばかりは腹に据えかねて、言い出した兵士にはとてもじゃないが無理だと抗議をしたんだが、案の定一発拳をもらったあとで「こんなもので遊ぶ余裕があるんだから、できるよなぁ?」と、取り出した僕の学習帳を出しに露ほども取り合ってはもらえなかった。
どうやら昨日の一件から、さっそく嫌がらせを思いついたらしい。
くそっ、暇な奴らめ…!
どうせ返す気なんてないくせに…。
それでも拒否できるような立場ではないし、もしかしたら取り戻せるかもしれないという一縷の望みもあったため、黙って言われた仕事に従事する。
おかげで勉強する余裕は完全になくなり、仕事が終わったら、満足に食事も取らずに寝てしまうという状態に逆戻りしてしまった。
そうして、そんな生活がどれくらい続いたのか。
正確には覚えていないが、まだ僕の身体が慣れ始める前だったから、そう長い期間ではなかったのだろう。
あるとき、全身の筋肉痛がひどすぎていつもよりもだいぶ早く起きてしまい、それでも何とか寝られる姿勢を模索していると、声をかけられた。
「なあ、ギンジ。お前、トウジの奴を知らないか?」
まだ日の出前の薄暗い中、もうすっかりと聞き慣れた声に起き上がって振り返れば、思ったとおりトウジの両親がこちらへと歩いてくるところだった。
聞き慣れているのもそのはずで、今はトウジと一緒にこの二人に勉強を教えてもらっているからだ。
というのも、最初の頃こそトウジから勉強を教わっていたものの、所詮は奴の知識量である。
早々にすべて吸収しきってしまい、物足りなさを感じていたところで、それならばと次は二人が教えてくれるようになったのである。
当然、トウジも誰かに教わっていたからこそあれだけ色々なことを知っていたのであって、その誰かというのが彼らだったというわけだ。
流石に両親はトウジとは違って説明も要領を得ているし、知識も幅広い。
だからすぐにトウジよりも知識が増え、逆に僕が教えてやるようになったのもごく自然のことであった。
これで僕の方が頭が良いのだとあいつも分かったに違いない。
しかしそう意気揚々としていたのもつかの間のことで、「やっぱりお前は凄いなぁ~」と、立場が逆転しても相変わらず楽しそうなトウジを見ていたら、なんだか馬鹿にされたくないと今までずっと気を張り続けていた自分が、すごくちっぽけな奴に思えてきてしまった。
「…どうして僕に聞くんだ。僕は別に、あいつのお守りをしているわけじゃないんだぞ」
その時のことを思い出し、なんとなく面白くなくなってきてやや憮然と答えると、母親の方がクスクスと笑った。
「相変わらず素直じゃないんだから。これだけ性格が真逆なのに、仲がいいというのも不思議だねぇ」
「そうそう。トウジとギンジといったら、右足と左足みたいなもんだろ。バラバラになっちまったら、そりゃあ大変さ」
するとすでに起き出して他の黒髪連中と話をしていた、僕と同じ新参の獣人の一人がわざわざ便乗してきて、方々からも笑い声が上がる。
声からして、来るときも馬車でぺちゃくちゃと喋っていた奴らの片割れだろう。
すぐさまギロリと睨みつけてやると、おおこわい、と大げさに肩をすくめてまた話に戻っていった。
まったく、どれだけ喋るのが好きなんだ…。
だいたい、いつの間に僕とあいつが仲良しということになったんだ。
憤懣やるかたないが、否定したところでますます勢いづかせるだけだということはすでによく分かっていたので、ため息をつくだけに留めておく。
今のお喋りな獣人のように、この頃には新参の連中もすっかりとこの場所に馴染んでいた。
仕事はきついし、兵士達も悪辣だが、少なくともここでは同じ奴隷から獣人だ新参だといびられることはない。
息をつける場所があるだけで驚くほど見える世界は変わってくるのだということは、僕もひしひしと実感している。
ちなみにギンジという名前がすっかり定着してしまったことについても、否定するだけ無駄という理由から仕方がないともう諦めている。
「そういえば、ここのところ声を聞いていないな。いつもなら鬱陶しいくらい話しかけてくるのに」
てっきり毎日疲労困憊の僕に気を利かせているのかと思ったが、すぐにあの大馬鹿者にそんな高度なことなんてできるはずがないと思い直す。
ならあいつは今、何をしているんだ…?
……。
…何だ?何か嫌な予感がする…。
よく寝坊しそうになって叱られているくらいだというのに、まだ夜明け前のこんな早朝からここにいないこと。
あれだけ頻繁に話しかけてきたのに、ピタリと静かになったこと。
そしてそれは僕が学習帳を奪われた辺りからだということ。
そういえばここ数日はらしくもなく何か考え込んでいたのを、重たい瞼を閉じるまでの一瞬の間にちらりと見ていたような気がする。
もし…。
もしあれが勉強で考え込んでいたのではなく、何かの計画を立てていたんだったら…?
バラバラだと思っていたピースが一気に繋がり始める。
ただの考えすぎかもしれない。
すぐにでもひょっこりと戻ってくるかもしれない。
それでもさっきまでの暢気な気分はもはや完全に霧散しており、代わりに言いようのない不安が胸中に広がっていく。
見ればトウジの両親も何か思うところがあったようで、表情が段々と曇っていった。
…とにかく、探しに行った方がいい。
何もなければ、そのときはあいつを絞ってやればいいだけだ。
しかしそう思って口を開きかけたときだった。
「大変だ!トウジが兵士の奴らに囲まれた!手を貸してくれ!」
仲間の一人が血相を変えて飛び込んできた。
その言葉にまさかと凍り付いたのもつかの間、すぐに踵を返した仲間のあとに続いて、僕とトウジの両親も住処を飛び出す。
「いったい何があったんだ!?どうしてトウジが兵士に囲まれているんだ!?」
「実は…」
後ろからもざわつきと共に大勢の仲間達が駆けて来る中、駆けながら問い詰めるようにして事情を聞くと、事の始まりはまだ月が煌々と辺りを照らすような暗い中で、トウジがこそこそと一人で製鉄所の方へと向かう姿をたまたま目にしたことだったらしい。
不思議に思ってあとを追ったところ、あろうことかそのまま中に入ろうとしていたので慌てて止めた。
兵士の許可なく立ち入って見咎められれば、厳しい罰があるからだ。
しかしどうしても探したいものがあるからと言って聞かなかったために、ならばと自分も覚悟を決めて手伝うことにした。
ただ結局探し物は見つからなかった上に、立ち去ろうとしたところを折り悪く兵士達に見つかってしまう。
とはいえ、それだけならまだ誤魔化すなり逃げるなりできることはあったんだが、信じられないことに、トウジが突然兵士の一人に飛びかかったのだという。
トウジは何をされてもヘラヘラ笑っているような、温和な奴だということは誰しもが知るところだったから、度肝を抜かれて止めるのが間に合わなかったのも仕方がないことだろう。
そして一間遅れて止めようとするも、騒ぎを聞きつけて次々と兵士がやってきたので、自分だけではどうすることもできないと判断し、助けを呼びに来たという次第だった。
「あの時中に入るのをちゃんと止めておけば…!すまない…」
説明を終えるなり、後悔を滲ませた声で誰にするでもなく謝罪を口にする。
だが今の僕に何か言葉を返せるだけの余裕はなかった。
だって話のとおりであるならば、今まさにトウジが兵士達に袋だたきにされている最中だということなのだから。
何をしているんだ、あいつは…!
焦る気持ちのまま、息が切れるのも構わず全速力で駆ける。
しかし無事でいてくれという願いも空しく、現場に駆けつけたときに僕達が見たのは、ボロ布のようになって兵士達につるし上げられているトウジの姿だった。
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