サイドストーリー:ある獣人のお話

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「…っ!?」  勢いよく振り下ろされた剣は空を切っただけで掠りもせず、それどころか、次の瞬間には懐に飛び込んでいたリュウゲンに奪われたようで、逆に兵士の喉元に突きつけられていた。  流れるような早業である。  目の前で起こったことだというのに、まったく動きが見えなかった。  な、何なんだ、今の動きは…。  人間よりも身体能力が高い獣人だって、こんなにも素早く動くことなんてできないだろう。  ましてリュウゲンは老人なのである。  後にこれが「技」というものなのだと知ることになるんだが、この時の僕にはまるで魔法のようにしか思えず、理解を超えた出来事にただ愕然としながらその光景を眺めていた。  ただ一方で、当の兵士の方は驚いた程度で済むはずもない。 「……」  恐怖に血の気を引かせた顔で、仲間達へと助けを求める視線を送る。  しかし剣を突きつけつつもまったく隙を見せず、油断なく鋭い目を向けるリュウゲンを前に、兵士達は誰一人として動けないでいた。  そんな中、リュウゲンが低く唸るように口を開く。 「確かに、わしらはお前達に生かされている状況じゃ。  …だが同時に、お前達もまた、わしらに生かされているのだということを忘れん方が良いと思うぞ」  静かだが空気を震わすほどの凄みある声に、うっと兵士達がまた怯む。  剣を突きつけられている兵士に至っては、すでにカタカタと震え始めるような始末であった。  これでは囲まれているのがどちらなのか分かったものではない。  今や場は、完全にリュウゲンによって支配されていた。  そのリュウゲンが兵士達を促すように視線を僕らの方へと移す。 「ヒッ…」  と、つられて振り返った兵士の一人から小さく悲鳴が上がった。 「「____」」  それはきっと僕達全員が瞬きもせずに、ギラつく眼差しを兵士達へと向けているのを見たからだろう。  誰も何も言葉を発してはいない。  だが今の僕達を見れば何を思っているのかなど一目瞭然であり、事実、底光りする無数の瞳に耐えかね、逃れるようにして兵士達が視線を彷徨わせる。 「!?こ、こいつら……!」  そして間もなく、サァッと顔から血の気を引かせた。  というのも逃げ道はすべて僕らが塞いでおり、リュウゲンを囲んでいるはずが、いつの間にか自分達が囲まれているという状況に気づいたのだ。  同時に、彼の言葉が誇張でも何でもないということも理解したのだろう。  一人がうめき声を上げたあとは言葉もなく、兵士達はただ顔色を失って立ちすくむばかりで、もはや武器の有無など関係なく立場は完全に逆転していた。 「おっとっと。これは迫真が過ぎたかのぅ…」  ところがそんな中、次にリュウゲンがしたのは兵士達に制裁を加えることではなく、おどけたように肩をすくめることだった。  直前までの威圧感が噓だったかのようにすでに元の飄々とした雰囲気に戻っており、奪った剣もあっさりと兵士に返す。 「まさか帝国兵士殿ともあろう者が、こんなに怯えるとは思わなくてなぁ。いやあ、すまんすまん。  それとも、この爺のちょっとした冗談に付き合ってくれたのかな?」  そのままからかい交じりの声でそう言うと、恐怖に固まっていた兵士達の硬直が解け、思わずといった様子で顔を見合わせ始めた。  今のやりとりが冗談などではなかったことは、ここにいる誰しもが分かっていることだし、そもそも兵士の剣を奪って喉元に突きつけたのだ。  とても冗談で済まされるようなものでもなく、本来ならこの場で斬り捨てられてもおかしくはない。  だが、本当に戦いも辞さない覚悟があるのだと見せつけた上でなら話は変わってくる。  __冗談で済ますならばこちらからは何もしない。    だが、これ以上仕掛けてくるのなら容赦はしない__  口にはしていないが、リュウゲンが言っているのはそういうことだ。  つまり、一見すると兵士達に楯突いたかのように見えるものの、実際はあの状況から奴らと戦いになることを回避したばかりか、さらには相手の仕返しに対する牽制まで行ったということになる。  すごいな…。  もし本当に戦いとなってしまえば、武器も防具もなく、人数にも劣る僕達の方が間違いなく不利なのに、そんな素振りはまったく見せず、理想的とも言える状態で場を収めたリュウゲンの手腕は、駆け引きというものをよく分かっていない僕の目にも高度で見事なものに映った。 「…くそ、しらけちまったぜ」 「このことは、上にしっかり報告してやるからな。よく覚えておけよ…」 「どけ!さっさとゴミ溜めに戻れ!」  助かったと兵士達が安堵の表情を見せたのもつかの間のこと。  すぐに忌々しそうに顔を歪め、盛大に毒づきながら足早に去っていく。  これが天ヶ原の将軍、なのか…。  兵士達をまるで子供の如くあしらう体術、咄嗟に場を収める機転。  同じ奴隷であるはずなのに、それをまったく感じさせない堂々とした立ち振る舞いは、奴隷だから未来はないのだという僕の思い込みを、真っ向から打ち砕くのに十分な衝撃があった。  国が滅び、上下関係がなくなっても皆から敬われ続けている理由が今ならよく分かる。  強さとは自由を得る力であり、腕っ節だけでなく様々な形があるのだと、鮮烈に僕の心に刻み込まれた瞬間だった。 「トウジ!」  兵士達が去り、行く手を阻むものがなくなるなり、トウジの両親が弾かれたように駆け寄っていった。  そうだ、今は感心している場合なんかじゃない…!  一間遅れて僕もトウジの元へと駆け出す。  だがこの時点で、いや、最初に目にした時点ですでに、僕は薄々理解してしまっていたのだろう。  だからたとえごく僅かな間だったとしても、目の前の現実から目を逸らしたかったのかもしれない。 「トウジ!おい、しっかりしろ…!トウジ…!」 「お願い…、目を開けて…!」  トウジは先ほどからピクリとも動いていなかった。  必死に呼びかける両親に抱きかかえられて、だらりと垂れた腕が力なく揺れている。 「トウジ…」  思っていたよりも遙かにか細くなってしまった声で、僕も名前を呼ぶ。  お前、いつまで寝ているんだよ…。  皆が心配しているじゃないか…。  トウジのことだ。  起きたらきっと、派手にやられちゃったぜ~、なんてあっけらかんと笑うのだろう。  そして両親や皆から散々怒られてしょげたこいつの愚痴を、仕方なく僕が聞いてやるのだ。  だから早く起きてくれよ…。  今日は一晩中でもお前の話に付き合ってやるからさ。 「おい、トウジ…」  そんな思いを込めてもう一度名前を呼ぶ。  しかし。  やはり答えは返ってこなかった。 「…失礼」  両親の呼びかける声だけが響く中、おもむろに近づいてきたリュウゲンがトウジの傍らに膝をつき、一言断ったあと、丁寧な手つきで首筋に触れた。  その様子を二人が怯えた顔で固唾を吞みながら見守る。  恐れを現実にしたくない。  しかし確かめないわけにもいかない。  二人の表情からは、そんな気持ちが伝わってくるかのようだった。 「…残念じゃが」  そしてゆっくりと、けれどはっきりとリュウゲンが首を横に振ると、ついに両親が泣き崩れた。  むごいことをする…、とついたため息からは、深い悲しみとやりきれない思いが伝わってくる。  トウジが、死んだ…?  周りからも次々と啜り泣く声が上がり始める中、一方で僕はただぼんやりとそれを聞いていた。  まるで不可解なことを言われたかのように、状況をのみ込むことができない。  別に誰かの死を見るのが初めてだというわけではないし、それが何を意味するのかが分からないほど幼くもない。  それでも、どうしてもトウジと死が結びつかなかった。  だってお前みたいなうるさくて能天気な奴は、どんなことがあったって笑って切り抜けそうじゃないか…。  それが普通の奴みたいに死んで静かになるだなんて、おかしいだろう?  自分でも無茶苦茶な理屈だとは思うし、頭ではもうとっくに理解しているはずなのに、なおも心は頑なにその考えに縋り、目の前の現実を否定する。  だから混乱しつつも、心に従ってもう一度名前を呼ぼうとトウジに手を伸ばしかけたときだった。  あれは…。  片腕でまだしっかりと胸に抱いたままの学習帳が目にとまった。
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