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トウジがボロボロになってまで取り戻そうとしたもの。
誰も間違えたりなどしないだろうが、練習の意味も含めて「ギンジ」と名前が書いてある。
あの時はまだ書き慣れていなかったということもあり、前衛的な模様かと見まごうばかりの実に下手くそな文字だ。
炭で文字を書いていたからあちこちが黒く汚れているし、そうでなくともボロ布や木っ端をまとめてあるだけなので、学習帳とは言いつつも、自分でも口にするのを憚ってしまうような粗末さだった。
…こんな物のためにこんな無謀なことをするなんて、やっぱりお前は馬鹿だよ。
本当に、救いようのない馬鹿者だ…。
苦々しい気持ちを噛みしめながらトウジの肩に触れる。
と、するりと腕から学習帳が落ちてページがめくれ、無数の文字や数字が目に飛び込んできた。
といっても空白を作るのが勿体ないからと隙間なく埋め尽くされている上に、炭が擦れたり移ったりしているので、一見するとほぼ真っ黒という有様である。
それでもすぐに、その中にトウジの文字で書かれた計算式があるのを見つけた。
この計算式はトウジが作った問題で、まだあいつから教わっていた頃、問題が簡単すぎるからもっと難しいのを出して欲しいという僕の要望に、一生懸命考えて出してきたものだった。
ただ、残念ながらどれも簡単だったので出した側からスラスラ解いてやると、いつも大げさなくらいに感心して、またトウジが問題を考え始めるということを繰り返す。
結局それは僕がもういいと音を上げるまで続き、疲労感の割には得られたものが少なかったことに、あの時は聞く相手を間違えたかとため息をついたものだったが、もう二度とそんなやりとりはできないのだと思ったら、突然何かがこみ上げてきた。
「……っ」
手が震え、視界がぼやけ始める。
学習帳なんてなくしてもまた作ればいい。
だが、トウジはもう二度と戻ってこないのだ。
そんな当たり前のことに気づくと、僕はようやくトウジがいなくなってしまったことを実感した。
「この大馬鹿野郎…」
生まれて初めて、声を上げて泣いた。
こんなことをするくらい思い詰める前に相談しろとか、どうしてあいつの変化に気づけなかったのかとか、トウジにも自分にも言いたいことはたくさんあったが、どれも言葉にはならず、涙と共に流れ落ちていく。
そもそも、今日まで僕は悲しいという気持ちを知らなかった。
不快さや悔しさとは違う、胸が潰れるような気持ち。
それはきっと、僕があえて何かに執着したり心を寄せたりしないようにしていたからで、ここに来なければもしかしたら一生知らなかったかもしれない。
ただ、悲しみを学んだ代償はあまりに大きく、知らなければ良かったと感じたのもまた初めてのことだった。
思えば、トウジと出会ってからは知識だけでなく様々な気持ちも学んだ。
競い合う楽しさ、負ける悔しさ、認められる嬉しさ、居場所のある安心感。
どれもすべて、自分一人では知ることのできなかったものだ。
だが感謝を伝えることはもうできない。
失って初めて、僕はあいつと話すことが決して嫌いじゃなかったのだと気づいた。
今更過ぎるあまりの間抜けさに、自分で自分を殴ってやりたくなる。
そして同時に、悲しみとはまた別の、やはり初めて知る感情も沸き上がってきた。
それは、大事なものを奪われた怒り。
今までだって腹を立てることはたくさんあったが、これほどの怒りを感じたのは初めてのことだった。
トウジの仇を討ってやりたい。
まるで自分ではない何かに突き動かされるかのように、その気持ちが強く胸の内で燃え上がり始める。
とはいえ、どうすればいいのかは分からない。
トウジの仇を討とうにも相手は複数で、正面から行ってもただ返り討ちに遭うだけだし、運良く一対一の状況に持ち込んだとしても、僕ではせいぜい刺し違えることくらいしかできないだろう。
それに僕が兵士を攻撃すれば、他の皆の立場も悪くなってしまう可能性だってある。
少しの痕跡も残さず、かつ確実に奴らに立ち向かえるような手段が必要だ。
そんな方法があるのか…?
…いや、探すんだ。絶対諦めるもんか。
そうして涙を拭うことも忘れて考えに没頭していると、ふとリュウゲンがこちらを見ていることに気づいた。
「ギンジ、と言ったかな?」
漆黒と比べればだいぶ明るい、深い鳶色の瞳と目が合う。
それはつい先ほどあれだけの立ち回りをした者とは思えない、静けさと思慮深さを感じさせる瞳だった。
何故僕の名を?と一瞬疑問に思ったが、あの時トウジの両親が呼んでいたのが聞こえたのかもしれない。
「お前さんの気持ちは、よく分かるつもりじゃ。わしもそれなりに長く生きておるからのぉ。
だが友を奪われたその怒り、どうか今はまだしまっておいてはもらえんか?」
「え?」
ただそう続けられた言葉を聞いて、つい間の抜けた声を上げてしまった。
なにぶん、彼らは仲間意識が強い。
だからトウジの仇討ちは賛同されることこそあれ、まさか止められるとは思っていなかった。
だが話しぶりからして、ただ僕を宥めているだけとも思えない。
なので意図が読めず問いかける視線を向けると、僕の考えを肯定するかのように、ニヤリとやはりどこか愛嬌を感じさせる仕草で僅かに口の端を上げて言葉を続けた。
「知っておるか?発散せずにため込んだ怒りというのは、なかなか消えんのだ。それどころかより強くなって、ことある毎に外へと出ようとする。
だからこそ、あえて押さえ込んでやるのじゃ。
出てくる度に押さえ込み、それを繰り返して繰り返して、自分でも空恐ろしくなるくらいに煮詰める。
そしていざというときがきたら、そのときは存分に解放してやろうではないか。…きっと、驚くほどの力を出すことができるじゃろうて」
そう話すリュウゲンの表情は口調と同様とても穏やかで、一見すると世間話でもしているかのように見える。
なのに、ぞわっと鳥肌が立つような迫力があった。
僕は、終始リュウゲンは冷静なのだと思っていたが、そんなことは決してなく、彼もまた怒っていたのだ。
そしてその怒りは今本人が言っていたように、今回の一件だけでなく、これまで散々煮詰めてきたものも含んでいるのだろう。
穏やかな表情の奥では、禍々しささえ感じるほどの昏い色の炎が燃え上がっていた。
そうだ…。彼らは僕達とは違うんだ。
今まではあまり意識してこなかったけれど、ここにいる者達の大半は国を滅ぼされて奴隷になったのだと聞いている。
もちろん、中にはトウジのように奴隷となってから生まれた者や、僕のように余所から連れてこられた者もいるが、それはつまり、生まれたときから奴隷であることが当たり前という僕達とは違い、おそらくほとんどの者が自分の大切なものを奪われてここにいるのだということだ。
それが友なのか、仲間なのか、居場所なのかまでは分からずとも、帝国に対して深い恨みを抱いていることは間違いない。
しかしそこまで考えたところで、もう一つ別のことに気づいてハッとした。
__その怒り、どうか今はまだしまっておいてはもらえんか?__
__いざというときがきたら、
そのときは存分に解放してやろうではないか__
リュウゲンの口振りはまるで、「いざというとき」が来ることを確信しているかのようではなかったか。
思えばずっと不思議だった。
あれだけ兵士達からひどい扱いを受けているにも関わらず、誰もがまったく抵抗することなく、ただ黙々と従っているのだ。
兵士を恐れているというのであればそれも不自然ではないだろうが、そんな素振りはまったくなく、むしろ今の一件や初日の一件然り、彼らは仲間のためならば、真っ正面から対峙することも辞さない覚悟を持っているのである。
加えて帝国に対して深い恨みを抱いているのだから、普通なら暴動が起きていてもおかしくはない。
いや、起きていないことの方が異常だろう。
けれど今この時、疑問は一気に氷解した。
…彼らはずっと、「いざというとき」のためにじっと耐え忍んでいたんだ。
同時に、その考えは確信となって僕の胸中に広がっていく。
そして「いざというとき」が何を示しているのかなど、状況を考えればもはや出てくる答えは一つしかない。
__反乱を企てているのか?__
しかし、その先は言葉にすることができなかった。
改めて言うまでもなく、あまりにも無謀が過ぎることだからである。
先ほど僕が考えていた特定の相手を討つだけとはわけが違い、たとえリュウゲンがどんなに凄い人間で、ここにいる皆が一致団結して立ち上がったとしても、そもそもの数が圧倒的に違いすぎる。
しかも僕らにはまともな装備すらなく、体調だって万全とは言いがたいのだ。
これはかつて「兵士なんてやっつけちまえばいいのに」と零したトウジを、両親が慌てて窘めたときに言っていたことで、もちろんまとめ役のリュウゲンが理解していないはずがない。
だからいったいどういうつもりなのかと再び考え込んでいたものの、するとまた穏やかな目に戻ったリュウゲンが小さく笑った。
「お前さんはまだ若いというのに、よく物事が見えておるようじゃなぁ。うむうむ、結構な事じゃ。
だがそれについて話をする前に、まずは天ヶ原の名に恥じぬこの勇敢な少年を丁重に弔ってやろうではないか」
「…っ!」
そのまま静かに続けられた言葉に、また胸が締め付けられるような悲しみが押し寄せてきた。
挙げ句には、まるで涙を止める方法を忘れてしまったかのように、視界まで滲んでくる。
僕はこんなにも弱い奴だったのか…。
もし今の僕をトウジが見たら、「ギンジは泣き虫だなぁ」と笑われてしまうことだろう。
トウジが笑うことはもうないんだけど、それでもこんな情けない姿は見られたくなかったので、慌てて目をこすり、リュウゲンに倣って振り返る。
と、その先では、涙を枯らした両親が静かにトウジの身だしなみを整えていた。
「白装束をあつらえてやることは叶わんがね。それでも少しくらい綺麗にしてやった方が、この子も喜んでくれるだろう」
どうやら無意識に、何をしているのか尋ねる目を向けていたらしい。
僕の視線に気づくと、父親がそう言って力なく笑った。
正直、僕にはまだ弔うというのがどういうことなのかよく分からない。
今までしたことはもちろん、見たこともなかったし、そもそも死んでしまったらもうお終いなのだから、
何かをしたところで意味があるとは思えない。
ただ、そんな僕でもトウジをこのままにしておくのはなんだか嫌だと思ったので、そっと誰かが差し出してくれた布を持ち、手伝いを申し出ることにした。
僕を見て、二人が一瞬驚いたような表情を見せる。
けれどすぐに表情を和らげると、ありがとう、と小さく呟き、僕が座る場所を空けてくれた。
その夜は、粛々とトウジの弔いが行われた。
教えてもらったところによれば、弔いというのは、死んだ者の魂が迷わず冥土へと向かえるように皆で祈るためのものらしい。
魂や冥土といった単語は聞き慣れないものだったし、どういう理屈なのかもよく分からなかったが、それでも不思議と、これが僕達にとっても必要なことなのだということは理解できた。
当然、兵士達が奴隷のために墓を建てるなんてことを許すはずがなかったので、闇に紛れて、皆が内緒で作ったという墓地に向かう。
墓地とは言っても標もなく、一見するとただの草藪にしか見えない。
しかしよく見れば、そこかしこに花や帯などがひっそりと添えられていて、それは暗闇で見えなくなる奥の方まで、果てなどないかのようにずっと続いていることが分かった。
この地では、今までにこれほど多くの者達が命を落としてきたのだ。
トウジと同じように奴隷として命を失った者だけでなく、かつての戦争で戦死した者や、処刑されてしまった者達も葬られているのだと両親が教えてくれた。
お前の仇は、絶対僕達が討ってやるからな。
トウジを埋葬し終えたあと、墓の前で改めて誓いを立てる。
リュウゲンからはまだ何も聞いていない。
だが彼らの意志はすでに疑いようもないのだから、僕のとるべき行動に変わりはなかった。
小さな墓からは、お前は体力がないんだから無理すんなよ~、なんて声が聞こえてきそうだったが、まあ見ていろ、と鼻で笑い飛ばして一輪の小さな花を添える。
「…さ、行くか」
「ああ」
仲間達に声をかけられて、墓に背を向ける。
それは月明かりもない空の下で行われた、ごく小さな誓い。
けれど僕が生まれて初めて自分の意志で足を踏み出した、大きな一歩だった。
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