大わらわの半年間

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「ひぐ…、おかあさん…、ぐす、しんじゃ、いや…、ひっく…」 「!?」  顔を向けた先ではシファが目にいっぱいの涙を浮かべて、グスグスと泣きじゃくっていた。  ペタンと寝ている耳と尻尾からも伝わってくる、これ以上ないくらいの不安と悲しみを漂わせる姿に、稲妻が脳天を突き抜け、間髪を入れず胸が雑巾のようにギリギリと締め付けられて悲鳴を上げる。  あ、ああ…、私はなんてことを…っ!  こんなことなら、最初から大人しく休んでおけばよかった…!  二兎追う者は一兎をも得ず、という言葉を身を以て痛感する。 「な、泣かないで、シファ。私はシファを一人にして死んだりなんか絶対しないよ!体調だって確かにちょっと悪いけど、きっとすぐ良くなるからね!  だからそんなに心配しないで、ね?」  ともあれこうなってしまった以上、私にできるのはただ優しく抱き寄せて頭を撫でてあげることだけ。  当然それだけで安心してくれるはずもなかったけど、他にどうすることもできない。  なのでダラダラと冷や汗を流しつつ、腕の中でしゃくり上げるシファを抱きしめたまま途方に暮れていたものの、するとここまでずっと鋭い眼差しで私を診てくれていたアーデさんが、不意にふっと表情を緩めた。 「…なるほど。ソラさんの仰るとおり、確かに心配はいりませんよ、シファさん」 「ほんと…?」  アーデさんの言葉に、シファがぐすぐすとすすり上げながら顔を上げて振り向く。  涙と鼻水で顔はくしゃくしゃのままだったけど、大きく見開かれた赤い瞳に、たちまち期待の輝きが広がっていくのが見て取れる。  シファは賢い子なので、アーデさんが頼りになる薬師さんだということをすでに理解できているのだろう。  ただそのことは同時に、私の「大丈夫」や「心配しないで」という言葉の信頼性が失われていることも意味しており、少々複雑な気持ちにもなったものの、ひとまずはホッと胸をなで下ろした。  今は何より、シファが泣き止んでくれること以上に大事なことはない。 「どうやらソラさんは寝不足のようですね」 「「え?」」  ところが、アーデさんの口から出てきたのはまったく思いもよらない言葉だった。  ね、寝不足…?  咄嗟に言葉の意味を理解できず、首を傾げてしまう。  それはやっぱり他のみんなも同じだったらしく、一様にきょとんとした顔をしていて、あのサトリさんですら目を瞬いていた。 「いやあ、私もこれまで色々な方を診てきましたが、ここまで重度の寝不足というのは初めてですよ。  ソラさん、最後にお眠りになったのはいつだったか覚えていますか?」  そんな私達の一方で、新しい毒草が手に入ったときや薬の研究をしているときと同じ、ウキウキととっても嬉しそうな表情でアーデさんが尋ねてくる。 「え?ええと…、一ヶ月と三日前、かな…?」 「「一ヶ月!?」」  記憶の糸を辿りながら答えると、ぎょっとメイ達が表情を愕然としたものへと変えて私を振り返った。  その表情からは一様に「信じられない…!」という気持ちがバシバシ伝わってきて、私は大いに怯んだ。 「で、でも、アーデさん。私、今さっきまでは本当に平気で…。眠気だってないし…」  なので慌ててごにょごにょと聞き返したものの、 「それはおそらく、意識の問題だと思いますよ。  人というのは不思議なもので、時に身体の限界を超えて行動できてしまうことがあります。  土壇場で普段からは考えられない力を発揮する、なんて話はみなさんも耳にされたことがあるかと思いますが、夢中になっているときに疲れを感じないというのもその一つで、この状態は別に疲労していないのではなく、ただ単に自覚していないというだけであるため、集中力が途切れるなどして意識が身体の方に向けば、途端にどっと疲れを感じるようになります。  ソラさんの場合はこの集中力が驚異的だったために、一ヶ月もの間平気だと感じていたのでしょう。  そうですね…。ソラさん、体調が悪くなる直前に何かいつもと違ったことはありませんでしたか?例えばお仕事に区切りがついたとか、誰かと体調を意識するようなお話をしたとか」  ますます嬉しそうな顔になって滔々ととっても分かりやすく説明してくれたあと、逆に質問を返されてしまった。 「し、シファに具合悪いのって聞かれました…」  何故かどんどん追い詰められているような気持ちになりながら、しどろもどろに答える私とは対照的に、なるほど、とアーデさんが満足そうに頷く。 「立ちくらみが起きたのも、シファさんとの会話で意識が身体に向いたためでしょう。言わば防衛反応ですね。それでもなお眠らずにこうして意識を保っているのですから、本当にソラさんの精神力は凄いですねぇ。  ですが今お話しした通り、身体の方は相当疲労しているはずですので、今ならきっとお布団に入った瞬間に眠ることができると思いますよ」  そしてニコニコと笑いながら説明を締めくくると、シーンと場が静まりかえった。 「……」  え、ええと、つまり、寝不足で本当は体調が悪かったにも関わらず、それに気づかずに、寝なくても大丈夫そう!なんて意気揚々としていた挙げ句に、シファを泣かせてみんなにも心配と迷惑をかけちゃった、というのが今の状況…、だよね…?  アーデさんの説明のお陰で、現在の私の状態をこの上なく明確に理解することができた一方、続けてそう冷静に状況を整理するなり、ダラダラと冷や汗が溢れ出してきた。  こくり、と思わずつばをのみ込む。  さっきからグサリグサリと突き刺さってくる、もの言いたげな視線がすごく痛い。  そこに何が込められているのかなど、もはや言葉を聞かずとも分かりすぎるくらい分かってしまう。  わ、わぁ、振り向くのが怖いよぅ…。 「…ソラちゃん?」 「…ソラ様?」  どうしても振り向く勇気を出せないでいる中、思ったとおりただならない怒気の籠もった声が聞こえてきて、ビクリと震え上がった。  なのでごくりとまたつばを飲んで、今度こそ恐る恐る目を向ければ、メイとフィーナがにこりと微笑んでいるのが見える。  でもその目は声と同じく大変お怒りで、ゴゴゴ、とまるで二人を取り巻く空気が打ち震えているかのように感じるほどであった。 「あ、あのね、二人とも、これはね、その…」  オロオロとひたすら狼狽える私をメイが目で制する。 「…色々言いたいことはあるけど、今はとにかく寝て」 「は、はい…」  そのまま有無を言わせずベッドを指さされたので、もはや弁明の余地もなく、私にできるのはただ素直に頷くことだけだった。  目が据わっているのはメイが本気で怒っている証拠で、声にもものすごく迫力があってとっても怖い。 「ですが起きたときはたっぷりとお説教させていただきますから、覚悟して下さいね?シファちゃんが泣きながら血相を変えて飛び込んできたときはいったい何事かと、私達もお家で待機してくれているゾフィーも、本当に心配したんですから…!」 「ご、ごめんなさい…」  腰に手を当て、真剣な表情でフィーナも怒ってくる。  いつもは優しげに垂れている目尻も今はつり上がっていて、メイとはまた違った迫力にちょっと泣きそうになる。 「ミメイが頑張ってくれるようになって心配事が一つなくなったと思ったのに、今度はソラが頑張りすぎないように考えないといけないわね…」 「うぅ…」  やれやれとサトリさんが苦笑いを浮かべる。  二人と違って怒っていなさそうではあるものの、尊敬する恩師から仕方のない子供を見るかのような目で見られるのは別の意味で心に堪えた。 「おかあさん、わたしには、ちゃんとねなきゃだめだよ、っていってたのに…」 「か、返す言葉もありません…」  続けてシファも珍しくむくれた顔を見せる。  そこに不安の色はもうなかったし、むくれた顔もやっぱりとっても可愛かったけど、状況が状況だけに喜んでいる場合ではなく、ひたすら謝るしかない。 「ソラさん。お目覚めになったあとは、これまでの経過についていくつか質問させていただいてもよろしいですか?  なにぶん、ここまで長期間眠らなかった方は今までお目にかかったことがありませんでしたので、後学と正確な記録のためにも是非ともお願いしたいのですが…」 「き、記録…!?」  と、みんなの反応にたじたじになっていたものの、すると今度は、一人だけ相変わらず興味津々の様子で楽しそうにしていたアーデさんがそんなことを言い出したため、ぎょっとした。  言っていることはよく分かるし、私としても誰かの役に立てるのは嬉しい。  しかしだからといって、こんな恥ずかしい記録を後世にまで伝えられてはかなわない。  恥ずかしすぎて、もう家から出られなくなっちゃうよ…! 「え、えっと…、記録は流石にちょっと…」 「それはいいわね。今後ソラが無茶なことをしないようにするためにも、今回の件は詳細に記録を残しておきましょうか」 「ええ!?」  だから大慌てて断ろうとしたのに、その前にサトリさんが決定を下してしまった。  いつものサトリさんらしかぬ強引さを感じて思わず目を向ければ、ふふ、と、先ほどのメイとそっくりな微笑みが返ってくる。  お、怒ってた…!サトリさんも怒ってた…!!  どうやらメイ達のように表に出ていなかっただけで、サトリさんもしっかりお怒りだったらしい。 「バッチリ記録しておかないとね…!あ、それならシファにも手伝ってもらおうよ!」 「め、メイ…?」 「うん!」 「私にも是非協力させて下さい」 「二人まで…!?」  そのまま追い打ちをかけるようにみんなが次々と賛同し始め、私の意志とは無関係にどんどん話が進んでいく。  とはいえ、みんなの怒りはそれだけ心配をかけてしまったからであり(アーデさんだけは楽しそうだったけど)、私自身後悔と自責の念を感じていることもあってもちろん反対など口にできようはずもなく、冷や汗を流しながらただおろおろと成り行きを見守ることしかできなかった。  以来、この一件は「眠らずのソラ事件」としてそれは正確な記録が残され、後々まで語り継がれることになる。  その度に私はこの時のことを思い出して心の底から悔いるのだった。  もう寝不足はこりごりだよ…。
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