すきすきからの卒業

3/8
3人が本棚に入れています
本棚に追加
/8ページ
 家に帰り、買ってきた野菜を炒めながら考える。私のこと、タオルケットのこと、これからのこと。意識がタオルケットへと向いて菜箸が野菜のない場所を空振りするように炒めていた。カッカッとフライパンと菜箸が当たって虚しい音が鳴る。ひとつのことを考えると他のことができなくなるの、これもどうにかしたいところだ。  嬉しいとき、悲しいとき、楽しいとき。酔っているときも、テレビを観ている時にだって。不安でいっぱいな日も、なにも考えていないときにだって。例えば、疲れた夜に行う機械的な自慰行為の最中にだって、私はタオルケットを触っている。若い頃はむしろそんな行為なんてしてこなかったのに。数年前、ふと自らに手を伸ばした時に思ってしまったのだった。「今タオルケットに手を伸ばしたら」と。異なる手触りの二種類の快に挟まれぐるぐるとした自己嫌悪の中、私は開放される。そんな生活がもう何年も続いていた。いい加減、こんなの辞めてしまいたかった。喉の奥に詰まるような悩みの種はどんどん養分を吸い取り大きくなっていく。  そして、もうひとつ誰にも言えないこと、それはこのタオルケットの呼び方だった。「すきすき」と幼少期から呼んでいたせいか、未だにその呼び方が抜けることは無い。うっかりすると人の前でもそう呼んでしまいそうで外ではかなり神経質に、一呼吸置いてからタオルケットと呼んでいる。そんなことも相まって、私はすきすきからの卒業を真剣に考えていた。  しんなりしてきたもやしとニラ。にんじんは……まだ。フライパンに蓋をして少し蒸らす。中ではパチパチと鳴る油の音がだんだんと鈍くなっていく。  ただの癖、他人から見たらそうなのかもしれない。けど、一日中触っていると言っても肌身離さず持っていられるのは家の中だけで、会社や電車の中でなにか不安に駆られても触ることは出来ない。それが私は苦痛で仕方がなかった。今までは我慢できていた時間がどんどん短くなり、通勤中にはカバンの中の小さなハンドタオルにすら縋ってしまいそうになる。不安を消すように必死に5本の指でギュッギュッとハンドタオルを握ってすきすきの感触を思い出す。違う、こんなんじゃなくて、もっと滑らかで柔らかくて。と。  そんな回想を経て、気づく。これはもうダメだ、と。何がなんでも卒業しなければいつか自分が潰れてしまう。このままではすきすきが手放せないどころか、家からも出られなくなってしまうのではないか。ただでさえ最近は会社が終わると他人との関わりをなるたけ避けて直帰し、すぐにすきすきを抱きかかえているというのに。本能に任せて、ヒーローみたく首元にタオルケットを結びつけておければ一番いいのだろうけど、好奇の目に晒されただ自滅するだけだ。そんなこと、できない。  全てがしんなりした野菜たちの中で縮こまる豚肉。雑に皿へと盛り付けて誰に聞こえるわけでもない「いただきます」を口にした。ウスターソースをかけてテレビを付ける。適当にお笑い芸人が出ている番組でチャンネルを止めBGMにする。  問題はどんな方法ですきすきから卒業するか、それだった。今まで無意識に30年以上も連れ添ってきたすきすきとの日々が終わるということに何か膨大でぐにゃりとした不安を感じる。卒業しようと思えば出来るであろう自慰行為も、すきすきが絡めばまた別問題だった。不安が頭痛を引き連れ、こめかみを殴っていく。既にこんな感じなのに卒業なんてできるのだろうか。いっそこのままズブズブと、すきすきに飲まれてしまうというのも良いのではないか。別に病気だと決まったわけでも、誰かに迷惑をかけたわけでもないのに。そもそも人の好きな物なんて千差万別、人の数だけある。私はたまたまタオルケットが好きだっただけで、すきすきが大好きなだけで、だから── 「ああ、もう!」  箸を無造作に置いてテレビに映っているお笑い芸人を睨む。誰も傷つかない八つ当たりで済んで良かった。何をどう考えても「卒業」をイメージするとイライラが止まらない。本当は直したい。それなのにどうやったって卒業しなくてもいいような言い訳ばかりが頭の中から湧いてくる。情けない、本当に情けない。ふと手元を見れば今日買ったばかりのタオルケット。新入りの手触りを確かめるように手をギュッとしながら縋っている。なかなか治らない手荒れにすきすきが引っかかってピィー、とささくれになる。赤い血が筋になってすきすきに染み込んでいく。ああ、もうダメだ。何をしてもきっと離れられない。  私はすきすきを抱きしめてそのままソファへと寝転がる。もういいや、どうにでもなればいい。洗い物も、明日の準備も全てを放棄して私はすきすきに包まれる。腰からゆっくり重く沈んで海の底へ落ちていくような感覚。コポコポと音まで聞こえてきそうだ。全身で感じるすきすきの感触に全てを委ね、私は眠りにつく。卒業なんてしなくてもいい。考えることをいっそやめてしまおう。  全身でギュッと、大好きなすきすきを抱きしめてそっと意識を手放した。
/8ページ

最初のコメントを投稿しよう!