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第10話 「惚れた女のために、一生に一度のバカをやる」
(imediasによるPixabayからの画像 )
それを聞いてボスが鼻で笑った。
「帰りたきゃ、勝手に下りて帰れよ、キヨ」
できないよ、この車、時速120キロでぶっ飛ばしているんだ。
ボスはついでのように、おれのことも陽気にののしった。
「シンジ、さっきから聞いてれば"カノジョ、カノジョ"ってな、ヤってもいねえくせに椿つばきをカノジョよばわりすんな」
「する・しないは関係ありません。おれにとって椿は‟恋人”です。そう決めたんだから、いいんです」
おれはEDだ。だからできない。いや、椿ちゃんと一緒にいるとできそうな感じには、なる。だからきっと、そのうちに、いつかできる気がする。
第一、ヤろうがヤるまいが椿ちゃんはおれの中では、カノジョだ。
そこへ、井上さんの冷静な声がした。
「なるほどね。ヤってないが惚れている女がいる。上等だ、飯塚。
だが、おれが深夜に呼び出された理由は、いまだにわからない。教えてくれ」
「はあ……椿ちゃんがラチられたので、それを取り返しに――あの、井上さん、ホントに何も知らずに?」
井上さんはきれいな形の鼻を鳴らして、じろりと運転席のボスをにらんだ。
「事前説明なんか、あるかよ。こいつはいつだって、ろくでもない場所へおれを引きずっていくだけだ」
真黒なロングコートをまとった井上さんは、ふだんの紳士的な言葉をすてて、ボスそっくりの口調で言った。
ボスは運転しながら平気な様子で答える。
「そっちこそ、俺以上にけんかっ早いくせに。なあ、今日はちっとばかり派手にやるぜ。キヨ、シンガリしろ」
「いやだ」
井上さんは冷たく言った。
でもボスは平気な様子で続ける。
「相手は4・5人だな。ケツモチしろよ」
「いやだ――何人いるのか知らないが、殺すなよ、洋輔」
井上さんは静かな声で、おだやかでないことを言う。ボスは車を乱暴に左折させながら大きな肩をすくめた。
「努力するぜ」
「期待してない」
井上さん薄い唇が不満そうに、とがる。見とれるほどのハンサムだ。
凶悪な視線はおれに向いた。
「飯塚。きみもこんな男と職場以外で付き合うとは、あきれましたね」
「好きで一緒にいるわけじゃありません。あいつらが椿をラチったんです。あの子を取り戻すためなら、地獄にだって行きますよ」
「でけえこと言う前に、椿をかっさらわれたマヌケぶりを反省しろや、あほシンジ」
ボスはあいかわらず不機嫌そうな顔つきだが、その後ろには獰猛なケダモノの興奮がある。
巨大な獣が抑制をかなぐり捨てて咆哮する。隣にいるだけでびりびりする。全身に鳥肌が立つみたいだ。おれの身体にもアドレナリンが一気に駆けめぐった。両手を膝の上で握りしめる。
指先、爪の先まで熱風が走りぬける。あいかわらず、胸の下がきしんで痛いけど。
身体なんてどうなってもいい。今はただ椿ちゃんを取り戻したいだけなんだ。
ジャケットの下で、背筋がぎわっと立ちあがるのが分かる。それを見ていたのか、背後から井上さんのおだやかな声が聞こえた。
「飯塚。おまえの女は絶対に取り返してやる。だから、もう二度とこんなバカとつるむな」
「椿が無事にもどってくるなら、どうなってもいいんです」
ふうん、と相変わらず信号をほとんど無視して吹っ飛ばしながら、ボスがつぶやいた。
「コイツ、本気だ――やるか、キヨ」
ああ、と井上さんは、おだやかなまま答えた。
「やる。
コルヌイエホテルのスタッフに手を出す奴は、頭のてっぺんからアレまで、五ミリきざみで細切れにしてやる」
こっそり見ると、井上さんの端麗な顔が邪悪に笑っていた。背筋に寒気が走る。
この人ら、まともじゃない。
でも、まともじゃないからこそ、きっと椿を助けられ――痛ててえっ!
「ボス、ちょっとスピードを落としてください。痛いんです!」
「がまんしろ。俺は急いでいるんだ」
「響くんです……振動が……吐くかもしれない、です」
「こら、あほシンジ、吐くなら外へ吐け!」
車の窓を開けると、冷たい冷たい夜風が吹きつけてきた。目を開いて夜空を見る。半分だけの月が、笑っていた。
男なんて。ホントにバカだ。
だけど一生に一回くらい、惚れた女のためにバカなことをしなきゃ、意味がないだろ。
まってろ、椿。もうじき着くから――。
車が止まったのは、ふるいマンション横の脇道だった。車のライトが消える。
真っ暗な車内で、ボスの煙草の火だけがぽわっとともった。
ボスは煙草をくわえたままスマホを出し、スクロールしたかと思うと、スマホごとポンとバックシートに投げた。
井上さんの長い指が、空中で受け止める。
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