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第13話 「あ……っ。すげえ……イイ……っ」
(Pete LinforthによるPixabayからの画像 )
黒い目出し帽、黒いロングコート。地獄の底から来たみたいな井上さんは、床にころがる男の手首をざっくりと踏みつけた。
クイと、あごを上げ、
「今日は、ヤツにしては苦戦している。部屋に入って二分で制圧、五分で完了が鉄則だ。遅くなるとまずい」
「はいっ」
おれは脱兎のごとく駆け出し……てない。あばらが痛いし、めまいもする。井上さんが笑った。え、なんでポケットから結束バンドを出しているんだろう……
「あと二分で撤収する、痛さは忘れろ」
あと二分なんてムリ――ん? いま何か踏んだか?
「あっ……」
廊下には男が三人ころがっていた。顔は血だらけ、よく見ると指が変な方向に折れ曲がっているやつもいる……ボスがだいぶ暴れたみたいだ。
おれは一人ずつ、ていねいに踏みつけてから――念には念を入れろって、井上さんも言ってたからな――リビングのドアを開けた。
「ボス……椿ちゃんっ!」
ボスはリビング中央に立っていた。ソファの先に、真っ白な顔をした椿ちゃん――あほスタジャン男にナイフを突き付けられている。
これじゃ動けない。
それにしても椿ちゃん、さっきの録画に合った女王さまスタイルのままだ……赤いレザーのミニワンピース、ひらっとしたワンピースは太ももの途中まで。その先には、白くてもっちりした太ももが……。
ぐわ、とおれの身体が明らかに反応しかけた。
いや待て! ここでか!? よせ、ムスコ!!
しかし身体の勢いは、あほ男のかすれた声で一気にしぼんだ。
「言うとおりにしなきゃ刺すぞ、この女。早く出て行けよ」
このクソ男。
よく見たら、椿ちゃんは手に一本ムチを持たされて、ぷるぷるとふるえている。かわいそうに怖いんだろう。
どう動こうか、迷っているとボスが言った。
「早くバッシング(片付け)しろ。このテーブルはてめえの担当だ」
コルヌイエホテルのメインバーで指示を出すのと同じ声だ。密林を、狂暴な肉食獣が優美に歩き回っているみたいな声。ぽわっと、ガスが抜けた感じがする。
そうだ、一人じゃない。ボスがいれば助けてくれるはず。と思ったら、ドガッ! と後ろから蹴とばされた。
もちろんボスだ。
「とっとと動け。俺は、あと二分で帰るんだ」
まじかよ、このひと!? ここで味方を蹴るか!
叫んでいる暇はなかった。男が目の前にいる。まず手からナイフを叩き落とす――つもりだった。
だが男のほうが早い。折れているアバラ骨にヘビーなパンチをくらった。
痛い。倒れそうになる。くそ、またさっきみたいにやられるのかよ。
バランスを崩しながら男の顔を見た。さっきテレビ画面にあった、子どもじみた顔――そして泣き声がフラッシュバックした。
『ごめんなさい、ごめんなさい、おかあさん』
『できるわよ、シンジ。やるのよ』
救わなきゃ、守らなきゃ。おれが椿ちゃんを守るんだ。
今度こそおれが、大事な人を助けるんだ。あの日、できなかった代わりに――。
ぐっと両足に力が入った。ふんばる。あばら骨が悲鳴を上げるが、何だってんだ。
惚れた女を守れなきゃ、男じゃない。
「ぐわああああ!」
前のめりの姿勢に急旋回して、スタジャン男のみぞおちに頭突きをかました。
男が吹っ飛ぶ。
おれは椿ちゃんに手を伸ばして、ぐいと引き寄せた。
「つばき、おれの後ろにいろ! 今だけは失神するな!」
「は……はい」
赤いレザー衣装の椿ちゃんが、後ろにくる。温かい気配がする――おれの女の体温。
でもスタジャン男はすぐに立ち上がってきた。頑丈な男だ。しかもヤツの手には、まだナイフが握られている。もう一度、あほ男に向かって突進する。
どうなってもいい。
椿のためだ。
スタジャン男の下あごに頭突きする。目の前にナイフが迫った。
とっさに噛んだ。思いきり、そいつの手にかみついた。
「いってええええ! なにすんだ、コイツ!」
「うるへえ!」
いっそ手の肉を噛みちぎろうとした時、鋭い声が聞こえた。
「ジッとしておいで、ダメ犬のくせに! 動いちゃダメ!」
「は……はいいい……?」
スタジャン男のマヌケな声がした。
女王さまの声、女王様の口調――え、誰だ?
顔を上げて確かめようとたとき、空気を引き裂く音が聞こえた。
ヒュンッ!
ビシイイイイッ!
おれの目の前を通過したムチは、スタジャン男のおでこにクリーンヒットした。
「あ……っ。すげえ……イイ……っ」
スタジャン男が白目をむいて倒れる。おれはおそるおそる振りかえった。
そこには――すっくと立つ女王さまが、いた。
赤いレザー、ハイヒール、ムチ。柔らかい身体をミニワンピースで飾った華麗な女性。
顔面蒼白な、椿ちゃんがいた。
「つ……つばき、ちゃん?」
「もお。だ、め」
どさっと椿ちゃんが倒れた。あわてて走り寄る。
でもおれが行くより先に、彼女の身体はふわりと持ち上げられた。おだやかなテノールの声がした。
「二分ジャスト。よくやった」
「い、いの――」
井上さん、と言おうとしたら、革手袋をした長い指で口元を押さえられた。
「名を言うな。室内にもカメラがあるんだ。帰るぞ」
井上さんは椿を肩にかついだ。そのまま部屋を出ようとしたら、ボスが言った。
「先に行ってろ。俺は‟アフター”がある」
ボスは史上最恐に凶悪な顔をした。うわ、絶対に、近寄りたくない。
井上さんはため息をついたみたいだった。首を振り、
「早くしろ。非常口のドアに仕掛けをするぞ」
ひらっとロングコートが揺れた。次の瞬間、井上さんは椿をかかえたまま走り出した。
必死に追いかける。
今になって、あばら骨がヤイヤイと痛みはじめた。痛い痛い痛い……くそ。
だがとにかく。
椿を連れて、このマンションから脱出しなきゃ。
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