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第14話 「あんなヤツ、置いていったほうがいいんだ」
(Brigitte is happy ... about coffee time :))によるPixabayからの画像 )
マンションの部屋から非常階段までは歩いて五秒。たった五秒のあいだに、すさまじい悲鳴が聞こえた。あの部屋からだ
前を歩く井上さんがつぶやいた。
「あのアホ――彼女をたのむ。外へ出るぞ」
井上さんは肩から椿ちゃんを下ろした。今度はおれが彼女を抱きかかえる。
非常口を開けてもらって外へ出る。うわ、寒いな。ぎゅっと椿ちゃんを抱きなおした。
ゆっくりと階段を降りる。ここは四階。椿ちゃんを落とすわけにいかないし、けっこう風がある。
階段の踊り場でいったん止まって息を整える。見上げると、井上さんが非常口のドアに何かをしっかり挟んでいた。
……ホチキス? 文房具の?
ドアは少し開いたまま。井上さんはドアの蝶つがい付近に何かを貼りつけた。ちょっと考えてから、貼りつけたものの量を増やしたみたいだ――赤いガム? ガムから長い紐が出ていた。紐がヘビのように非常口の下でとぐろを巻く。
何だ、あれ。
そのうちに、井上さんが駆けおりてきた。たちまち追いつくと、
「代われ。おれのほうが早い」
ふわっと椿を自分の肩に乗せかえた。そのまま階段をすべるように下っていく。
やべえ、置いていかれる。おれはドタバタと音をたてながら、最大限のスピードで階段をおりた。一段降りるごとに、あばらに響く。
井上さんは最後の数段を、椿を肩に乗せたまま飛び降りた。どういう仕組みなのか、二人分の体重で着地するときでさえ足音ひとつしなかった。そして壊こわれ物ものを渡すときのように、そっとおれに椿ちゃんを渡した。
乗ってきた赤い軽自動車が、非常口の真下に駐車してある――すごいな、最初から計算して、ここに置いてあったんだ。
用意周到な人。いつだって冷静沈着な人なんだ、井上さんは。
このひとが、感情を優先させて計画からはみ出すことなんてあるんだろうか……。
「飯塚、乗れ」
車のエンジンがかかった。椿ちゃんをバックシートに座らせて、隣に乗り込む。
ぱたん、と車のドアが閉まった瞬間、ボスの姿が四階の非常階段に出てきたのが見えた。
ボスは非常階段のドアを全開にして、足もとのひもをつかんだ。
え、ライター?
紐に点火?
そのままホチキスでドアを固定した。大きく開いた状態でとまる。
井上さんが一気に車のアクセルを踏み込んだ。
大通りへ向かっている。
「井上さん、ボスがまだっ」
俺の声に、井上さんは目元だけで笑ってみせた。
「あんなヤツ、置いていったほうがいいんだ」
振り返ると、ボスの長身がすさまじいスピードで非常階段を降りてくる。降りるというより、飛んでいるみたいだ。
壊れかけている非常階段が衝撃でガタガタする。
スローモーションみたいに非常口のドアが閉じていくのが見えた。赤いガムの紐が短くなっていた。
まさか、あれ。
導火線?
爆薬? まさかまさか。まだボスは非常階段の途中だ。気づいているんだろうか。
「どおりゃっ!!」
ボスは、最後の一階分を派手に飛んだ。長身が夜空に舞う。
四階の非常口が閉じた瞬間、ドガッ!という音とともに小さな炎と煙が出た――爆弾だったんだ、やっぱり。
地上に降りたボスは大きなストライドで走ってくる。その横に、車が砂煙を立ててぴたりと止まった。ボスの鼻先、十センチのところだ。
ドアが開く。小さな軽自動車にボスが飛び込んできた。井上さんが一気にアクセルを踏むと、タイヤがきしむ音以上にでかい声でボスが怒鳴った。
「てめええ、くそキヨ!」
「タイミングぴったりだったな」
「タイミングじゃねえよ、アホキヨ! ドアの仕込み、いつもより量が多いじゃねえか。危うくこっちまで吹っ飛ぶとこだ」
「おまえさ、走るスピードが落ちたんだよ。去年はあれでちょうどよかった」
車が公道に出たので、井上さんは車のスピードを落とした。目出し帽をむしり取ると、
「ひどい帽子だったな……飯塚、シートベルトをしなさい。いまは警察に検挙されたくないんです」
ボスも血だらけの目出し帽を脱いだ。
「平気だ。やべえものはひとつも残しちゃいねえ。あるのはホチキスぐらいだ。今日のアレ、なんだキヨ?」
「C4爆弾。そっちこそ最後の悲鳴――何を使った?」
ボスが凶悪な顔で笑う。
「ピッキングピース。なあ、シンジ。あいつはもう二度と‟ダブルフェイス”には来ねえぞ。
どこへいっても、もうおったてるものがない」
ぞくっと寒気がした。井上さんは車を黄信号でとめて、舌打ちをした。
「しょうがないな、おまえは……まあ、何とかなるか。さっきの爆破で救急車とパトカーがすぐ来るだろう」
笑うボスの横に、井上さんのひんやりした美貌が並ぶ。可憐な赤い軽自動車が夜道をすっ飛ばしていった。
おれはぐったりとバックシートに沈み込む。全身の力が一気に抜ける感じだ。頭の中はまだ大混乱で、地獄の底にいた気がするけど。
車に揺られながら、隣の椿ちゃんを見る。
丸い肩がゆっくりと上下している。ふれようと指を伸ばしかけて、やめた。
今はまだ、目覚めさせたくない。椿ちゃんだって大変だったんだ、少しでも休みたいだろう。だけどレザーワンピースだけじゃ寒いよな……ダウンコートを脱いで彼女の上に掛けてやる。
ひたひたと暖かい気持ちが、こみあげてきた。
取り戻したんだ、椿ちゃんを。
おれの大切なひとを。
目を閉じて、あばらの痛みに耐えているとボスが言った。
「シンジ。このままお前の部屋に行くぞ。椿は一晩、そっちに泊めろ。まさかと思うが、連中が椿とエミリの家を知っているとまずいからな。エミリはおれ達が、あとから拾っていく」
「はい」
ダウンコートの上からそっと、椿ちゃんの肩をなでる。
無事だったんだ。とにかく無事だったんだ。
いまは、それだけでいい。
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