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第15話 「女には、惚れた男にだけ預ける秘密がある」
(나오 임によるPixabayからの画像 )
三十分後、車はアパートの前にとまった。バックシートで眠る椿(つばき)ちゃんに声をかける。
「――椿ちゃん、起きられる?」
反応はない。反応がないことで、不安がヒートアップする。
あいつら、椿ちゃんに何かしたんじゃないだろうか。
あのヘンタイたちが、椿ちゃんに赤いレザーのミニワンピースを着せるだけで満足しただろうか?
ひょっとしてべたべたさわったり、ふっくらした唇にキスしたり――ぎりっと奥歯をかみしめたとき、ボスが言った。
「椿を抱きおろせ。大丈夫だ。あの部屋で、椿はお前にさわられても気絶しなかった。信用しているんだよ」
ボスは身軽に車から降りた。後部ドアを開けて、ダウンコートに包まれた椿ちゃんを見る。
「シンジ。女はな、惚れた男にだけ秘密をあずける。椿の秘密は、お前がしょってやれ」
「――はい」
バックシートから抱き上げた椿ちゃんは、ずしりとした重みがあった。温かく柔らかい、おれのカノジョの重みだ。
そのまま、車に向かってぺこりと頭を下げた。
「井上さん、ありがとうございました」
運転席にいる井上さんは、
「礼はいりません。本当に佳い男ってのは、惚れた女を守って守ってぜったいに傷つけない男のことだ。今夜のきみはまさに、それでしたよ」
端正な美貌がニヤリと笑った。
「カッコよかったぜ――シンジ」
シンジ、と呼ばれてぞくんとした。仲間になったみたいな気がしたからだ。もっとも、このふたりには到底かなわないけど。
いや……かなわなくていいな。
ボスと井上さんが乗った車は、軽いエンジン音で走り去った。おれは椿ちゃんをかかえて、ゆっくりと部屋に入っていく。
ああ。
あばらが痛い……。
深夜三時、部屋は静かだ。ベッドで眠る椿ちゃんを見る。こうやって、眠る椿ちゃんを見るのは二回目だ。
二週間前、初めて椿ちゃんと話した夜。彼女がファミレスで気絶したのを、この部屋へ連れてきた。
たった二週間。
二週間で、おれの世界は変わった。
ぶん殴られても、あばらを折られても平気なほど、大切なひとができたからだ。
館林 椿(たてばやし つばき)。
もっさもさの髪で、表情もよくわからない女性。会話では、細ぎれの単語を投げてよこすだけの女性。男にふれられると気絶する男性恐怖症のひと。
SでもMでも女王さまでも犬でも、もうどうだっていい。
おれは彼女に、恋をしている。
ふっと椿ちゃんが目を開けた。
「ここ、どこ?」
「おれの部屋だよ」
まだ混乱しているのか、椿ちゃんは珍しく、まっすぐにこっちを見た。
ぱちりとした大きな目。ふだんは隠れている目がきれいだ。
ふっくらした唇が開く。
「いいづか、さん?」
「うん」
「あたし、かえってきたの?」
「うん。帰ってきたんだよ」
椿ちゃんはベッドに寝たまま、視線を天井に向けた。
やがて、ぽつりと言った。
「あいつらに、さわられた」
頭が真っ白になる。くそ、やっぱり。
がば、と立ち上がる。両手を砕けそうなくらいの力で握りしめた。
「―――いまから、全員を殺してくる」
でも椿ちゃんは首を横にふった。
「ちがうの、あの」
「椿。どの男だ、おれが切りきざんで来る」
「違うんです! あたし―――あたし、きれいじゃないの」
彼女はベッドから起きあがった。小さな手が、神経質にこすりあわされている。まるで、しつこい汚れを洗い落としたいみたいに。
「あたし。きれいじゃない」
椿ちゃんの横にしゃがみ込む。小さな白い手を見つめてから、聞いた。
「椿ちゃん、手に、さわっても大丈夫?」
彼女は何も言わずに、おれの前に手を出した。それを両手で包み込む。
あたたかい。
おれがこの世のすべてから、守りたい手。どんなことからも、守りぬくと決めた大事な手だ。
「きみは、きれいだよ。
これまでに何があったとしても、この先に何が起きようが――きみは、きれいだ。おれは、そう思うよ」
ぱたり、と手の上に涙が一滴落ちた。
「いいづか、さん」
「慎二(しんじ)でいい」
「し、しんじ、さん――あたし。あたし」
椿ちゃんの頬に手を伸ばす。涙がほろほろと流れ続ける。温かい液体が手にこぼれて、脳髄にしみ込んでくるみたいだ。
いとおしいと感じることは、つまり体温だ、と思う。
椿は無事で、ここへ帰ってきて。
今、ふたりで同じ場所にいる。それが大事だ。それだけが、大事なんだ。
ふいに、ボスの言葉が浮かんだ。
『女には、惚れた男にだけ預ける秘密がある』
椿の秘密は、おれのものだ。
おれだけの、ものだ。
たいせつなひと。
「話せ、椿。きみが背負っているものを、おれに寄こせ。楽になるんだ」
椿の口が開いた。でも、開いたままふるえている。
彼女の唇を指でなぞっていく。
「だいじょうぶ。きみが言いやすいように、おれが引き出そう」
唇を合わせる。思った以上に柔らかかった。温かく、おれの舌を受け入れる。
しらなかった。
キスがこんなに静かだなんて。
しらなかった。
大切な人の口の中に、ずっと欲しかった愛情が眠っているなんて。
「さあ。話して、椿」
椿はこちらをじっと見た。
「あたし、おとうさんを、刺したの」
「お父さんを刺した?」
「そう」
彼女の声は平静だった。
誰にも言ったことがない秘密を明かすには、あまりにもあっけなく、ふつうすぎる声だ。
すうっと椿は息を吸ってから、話しはじめた。
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