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第16話 「おれの いとしい人だから」
(StockSnapによるPixabayからの画像 )
秘密を打ち明ける女性は、どうしてこんなに可憐で、いとおしいのか。
椿(つばき)の話を聞くだけでいいんだ。聞くことが、“最愛”の形になる。
「あの日、あたしは小学二年生で。半年前にお母さんが病気で亡くなったばかりだった。お父さんは仕事をやめてお酒ばかり飲んでて。
インフルエンザで学級閉鎖になったから、早く帰ったの。そしたらお父さんが―――」
椿の目はうつろで、彼女が十八年前に戻ってしまったことが分かる。
八歳の、何もできなかった子供に。
自分を責め続けることになった、その日に戻っている。
「椿、ゆっくり話せ。おれが聞いている」
緊張で白っぽくなった唇がふるえる。一言ずつが、こぼれ落ちてきた。
「うちに帰ったら……おとうさんが、おねえちゃんを殴ってた。
ひどかった。顔、肩、首、背中、腰、お腹、全部を殴って、蹴って――血がふき出してたの、鼻と口から。
血が。
とまらなくて。
でも一番ひどいのは――おとうさんが――笑っていたこと。
笑いながら、おねえちゃんを、殴りつづけていた。
おねえちゃんはぐったりして、声も出なくなっていたのに。
あたしは気が付いた、初めてじゃないんだって。
これまでもずっと、お父さんはおねえちゃんを殴っていたんだって」
児童虐待。
椿の声が夜に溶けきらず、ざらざらした粒子となってばらまかれてゆく。
記憶がきしむイヤな音は、椿からあふれていた。
おれの愛する人から。
「あたし、台所から包丁を持ってきたの。お父さんの腰を刺した。あの感じ……」
椿はつぶやいた。
「固いような、柔らかいようななかに、包丁が入っていく。途中で止まったわ、きっと骨にぶつかったのね。あたしは子供だったし、それ以上続けられなかった。
そうしたら、お父さんが」
「うん」
「お父さんが、あたしに向かってきた――血だらけで。あたしの首をつかんだ。
息が止まりかけた。
そうしたら、おねえちゃんが」
ひゅっと椿の呼吸が細くなった。まるで悪鬼にのど元を締め上げられているように。
椿を抱きしめる。
「椿、ぜんぶ言え。おれがきみの代わりに背負うから」
腕の中で、椿が目を閉じたままゆっくりと呼吸を取りもどすのがわかった。
彼女の声が、出てきた。
「お姉ちゃんが、お父さんの腰から包丁を抜いて、背中を刺したの。何度も何度も――。
それからお父さんが動かなくなるまで、あたしの目をふさいでくれた。
でも見えたの。血が床に広がって、足元まで来た」
わすれられないの、と椿はささやいた。
「わすれられない。お姉ちゃんは言ったわ。
『椿、これはあんたには何の関係もない。あたしだけのことだ』
って。
でもあたし、スキを見てお姉ちゃんの血だらけの指をなめた。お父さんの血をなめたの」
椿は顔を上げた。
「だから、あたしたちは、共犯なの」
「そうか――それから、どうなった?」
「お姉ちゃんが、洋輔(ようすけ)さんに連絡した。洋輔さんは高校の先輩で――前から、殴られているって相談していたみたい。“緊急時は連絡しろ”って……。
そこからは、洋輔さんが全部やってくれた。あたし達をビジネスホテルに泊めて、部屋を掃除したのね。次の日には血が消えていた。
それから、お父さんも消えたわ」
「お父さんが、消えた?」
椿はうなずいた。
「あとから洋輔さんが言ったの。
『あの男、死んでねえよ。あの程度の出血じゃ死なないんだ。今はウチで預かってるが、傷が治ったら山奥のタコ部屋にでも放りこむ。
お前たちは未成年だから、親は生きているほうがいい。
親父は長期出張ってことにして、これまでどおり二人で暮らせ』って」
「お父さんとは?」
「それきり会ってない。生きているか死んでいるかも知らない。
それからは洋輔さんが従兄いとこってことになって、ときどき“叔父さん”っていう大人も訪ねてきて。大家さんに挨拶してたわ。
そうやってお姉ちゃんが高校を卒業するまで、洋輔さんが生活費をくれて学校のお金を払ってくれて」
「ボスは謎すぎるな」
おれが笑うと椿も弱々しく笑った。
ありえない話だが、カラクリはうすうす分かる。
ボスのお父さんは“反社会勢力”のトップだ。世間の裏側をよく知っている。息子の頼みで、人ひとりをどこかへ運んでしまうなんて簡単だろう。子供二人の生活費も。
「あのボスは、いつだって頼りになるんだ」
すると椿は、
「でも今日の慎二さんも、かっこよかった」
「――え?」
「助けに来てくれて、ありがとう」
うわわ。顔が赤くなるのが分かる。身体中に、温かく強いものがひろがる。
好きな人に褒められるって、こんなにうれしいんだな。信じられねえ。
それでもいちおう、謙遜するつもりで、こほんと咳払いをした。
……わすれてた、あばらのこと。咳をするだけで、痛い!
「いてててて!」
「だいじょうぶ、慎二さん!?」
「イテテテ……だい、じょぶ。
あの、さ。椿ちゃん。
おれはこんな男で。ボスや井上さんとは大違いなんだけど。
でも、おぼえてて。
きみを守るのは――この世で、おれひとりだ。ほかの男じゃないよ?」
痛みをこらえて、椿にキスをする。いやもう、この唇。クセになりそうだ、キスをやめられない。
うめきながら立ち上がる。足がふるえている。痛みのせいじゃない――男が秘密を告白するには、いつだってメガトン級の勇気がいるからだ。
だけど、椿ならおれを受け入れてくれる。信じても大丈夫だ。
椿はおれのいとしい人だから。
「――EDの理由、聞いてくれる?」
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