74人が本棚に入れています
本棚に追加
第2話 「パンツは履いている。首にひもをつけている」
(LicorBeiraoによるPixabayからの画像 )
背筋がぞくぞくする。ボス、深沢(ふかざわ)さんのキゲンが悪いからだ。
コルヌイエホテルのシックなメインバーを支配しているのは、深沢さんの“恐怖政治”だ。
ボスにさからうと、全員ボコにされる。
ただのボコじゃない。
ボッコボコのボコだ。
だがやられたスタッフは翌日、骨折していようが出勤する。なぜなら、休むともっとひどい目にあわされるからだ。
そして笑ってメインバーに立つ。制服の下であざが七色になっているとしても、おれ達は笑って職場に立つ。
それがコルヌイエマンの意地だ。
おれがボスをかわしてバックルームを出ようとしたとき、後ろからぐいっと首をつかまれた。
「シンジ、ちょっと来い」
深沢さんは血液の代わりに色気が流れているような指先で、おれの顎あごをつかんだ。
「シンジ。てめえ最近、ろくなセックスしてねえだろ」
「……なに、言ってんすか」
言いかえすと、深沢さんはポイとおれを放り出した。
「客だろうがなんだろうが、女からの誘いを断るようなバカは、うちのバーにいらねえ。シンジ、今日の帰りはつきあえ」
「かえり?」
「良いところへ連れて行ってやる。カウンターを片付けろ」
またしても、深沢さんに蹴られた。まじで、足グセが悪いよ。おれはバーカウンターに座る客を意識して、さりげなく態勢をなおした。
耳いっぱいに、深沢さんの言葉が鳴り響いている。
『お前、ろくなセックスしてねえだろ』
まさしく。
おれは、十一歳からあと、全然だめだ。
ED。
Erectile Dysfunction。
勃起不全。
なんとでも言え。
できないものは、できないんだ。
★★★
深夜一時半。
仕事が終わったおれは、深沢さんと雑居ビルの前に立っていた。シャッターが閉じている。
あやしい。明らかにあやしいビルだ。
おれはそろっと、足を引いた。逃げるためだ。だけど深沢さんに肩をつかまれた。くそ、勘がいい。
やがてシャッターが開き、40代に見える男が顔を出した。
「どうも、深沢さん」
「よおテラさん。エミリは稼かせいでるか」
「今もお客さまです……お連れさまですか」
ひしゃげた耳を持つ黒服は、じろっとおれを見あげた。おれの背中に寒気が走る。
このバー、ぜったいに普通じゃない。
地獄の底みたいな、匂いがする。
「あの、ボス、おれはここで」
そう言いかけたら、ぎろっとにらまれた。目だけで人を殺せるよ、まじで。
「とっとと入れ、飯塚いいづか。寒いだろ」
おれはまた、腰を蹴とばされた。
痛い。
入ってみると、バーの中はやけに室温が高かった。深沢さんはどんどん奥へ行ってしまう。
さっきの男に向かって
「テラさん、ジンライムふたつ。シンジ、来い」
おれは、はいという言葉さえ、出てこない。ただもう、いま自分が見ている光景がよく分からないんだ。
おれの目の前には、深紅のカーペットに腹ばいになっている男がいた。
おれは小さくつぶやく。
「コンバンワ」
男が顔を上げた。品の良い額にぱらりと銀髪が落ちる。
五十代だろうか。まともに服を着ていたら相当な貫禄があるだろう。
服を、着ていれば。
いまは着ていない。パンツは履いている。あと、首にひもをつけている――まるで犬みたいに。そして深紅のカーペットの上で子犬みたいに腹ばいになっている。
深沢さんはひょいと男をまたいだ。おれは、あわてて後を追う。
はずみで足が床の男の肩に当たった。男の身体がふるえる。
「す……すみません」
おれがそう言った瞬間、目の前をひゅん、と走ったものがあった。
同時に、鋭い女性の声。
「ひとりで勝手に気持ちよくなるなんて、どういうことなの――犬のくせに」
ピリッと部屋の空気が引き裂かれたような感じ。
女性の声が聞こえた瞬間、おれの足元でうずくまっていた男の背中がびくりとふるえてこわばった。
やがて声の主があらわれる。
その姿を見て、おれは気が遠くなりかけた。
女性は、ちょっぴりタイトなワンピースを着ているように見える。
でもワンピースは深紅の革でできていて、かかとが10センチもありそうなハイヒールをはいている。よくあれで立っていられるな。
そして、手にはムチ。
女性の持ったムチがひゅんっと音をたてておれの目の前を走り、すばやくまた、手の中におさまった。
半裸の男はますます身体を小さく縮めた。
そしておれの足元で、ぼそぼそとしゃべりはじめる。
「もうしわけ、ございません、女王さま」
「なにが?」
「あ……その、女王さまに、おわびを」
「なぜ、謝るの」
「は……いえ、その、私がかってに、謝りたく……」
「謝りたい? なぜ?」
ムチを手にした女性は薄暗いバーの中ですっくと立ち、男を見おろしていた。
彼女の言葉は少ない。
しかし短い言葉を続けることで、男を攻めたてている。男は身もだえて答える。あまりしゃべらない女性のほうが優位に見えた。
「すみません、すみません女王さま。すみません」
男は身体をゆすって、うめいている。“女王さま”はただ男を見おろしている。
その、圧倒的な存在感。
エロティックな空気感。
おれは息をするのも忘れた。
そのとき、のんびりしたごくふつうの女性の声が聞こえた。
「あのう、ジンライムのお客さま――」
バーカウンターから、毛玉だらけのトレーナーを着たごく普通の女性が出てきた。
目の前にいる半裸の男。女王さま。毛玉だらけの服。
すさまじいまでの違和感に、おれはめまいがしてきた。
ここはいったい、どこなんだ。
おれはいったい、何を見せられているんだ?
最初のコメントを投稿しよう!