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第3話 「ハイヒールとムチと、彼女の目に恋をする」
暗いバーの中で、ボスの声が聞こえた。
「その酒、こっちによこせ、椿(つばき)」
「あ、洋輔(ようすけ)さん」
“椿(つばき)”と呼ばれた女性はグラスをカウンターに置いた。それからボスのまわりを見まわして
「あれ……ジンライム……ひとつでした?」
「ふたつでいいんだ、椿。もうひとりは、あそこから入ってこねえ」
ボスのあごが、おれに向く。あわててカウンターに向かった。
とちゅうで、床にはいつくばっている男を見ると背中にぶわっと鳥肌が立っていた。
恥ずかしい? 寒い? 両方だろうな、と考えているとボスの声がした。
「なあシンジ。その男は、それで良いんだ。だがお前がその男になるには、才能がいるぜ」
「才能?」
ボスはにやりと笑った。
「SだろうがMだろうが、想像と身体をつなげる能力がなけりゃ、ダメなんだ。あの男はな、今、この世であってこの世じゃねえ場所にいる――ゆがんでいるが天国だ」
おれが茫然としていると、“椿”という女性がカウンターから出てきた。小柄でトレーナーとデニムパンツをはいている。普通の格好だ。でもSMバーでは、ものすごい浮いて見える。
彼女はそのままテーブルのグラスを片付けようとして、床にうずくまる男に気づいたらしい。
手が止まる。おれはこのバーに入ってから、はじめてホッとした。
”椿”という女性は、まともらしい。
でも次の瞬間、彼女は冷たく言った。
「エミリ女王さまの命令を無視するなんて、ろくな犬じゃないわね」
彼女は手にしたシルバー盆を縦にして、男の背中に突きたてた。
「……あふうっ!」
おれは口がふさがらない。トレーナーの女性はつづけて
「女王さまのご命令はなに?」
「……お店を、一周して、グラスを……」
「グラスを?」
さっきの女王と同じような言葉が、どんどん男を追いつめていく。男は身もだえていた。
「ふ……グラスを集める……私の、背中に……エミリ女王さまが……ふうっ」
おれは顔をしかめた。ひどい、ひどすぎる。
SMバーであっても、男をここまで罵倒するなんて。
そう思った時、おれははじめて気がついた。
這いつくばった男の口元がゆるんでいる。笑っているんだ。
こいつ、歓んでる。
「じゃあ、早くいきなさい。女王さまがお待ちよ」
といって、小柄な女性は男の背中に金属の盆を乗せた。
男は大喜びで盆を乗せたまま、すごい速さで部屋のすみに行ってしまった。そこでは長身にレザーワンピースを着たエミリ女王さまが待っている。
女王さまはやって来た男を見おろすとすぐにハイヒールを背中に乗せて、ぐうッと踏んづけた。男がのけぞる。
おれがただもう立ち尽くしてプレイを眺めていた。すぐ隣で小柄な女性がつぶやく。ついさっき、“犬”の背中に盆を突き刺した時とはまるでちがう、弱々しい声だ。
「ああもう……いや。なんで、あたしが……こんなことまで」
「いい女王さまっぷりだったぜ、椿。エミリみたいに、プレイもできるんじゃねえか」
バーカウンターに座ったボスが笑って言った。“椿”と呼ばれた女性は小声で答える。
「おねえちゃんみたいなプレイなんて……ぜったいに、やりません。カウンターの仕事だけでいいって……言われたのに……話が、ちがう」
彼女はおどおどとトレーナーの裾を引っぱった。その指は意外なほど、しなやかで優雅だ。
ついさっき女王さまが使ったムチのように優雅。
おれは彼女を見る。
彼女は前髪の奥から目を光らせて、部屋の隅の“女王さまと犬”を見ていた。
柔らかな少女のような目が笑っていた。
おれの背筋にぞくっとふるえが走る。ついでに、勃ちかけた――十六年ぶりに。
その瞬間、おれは彼女に恋をした。
ハイヒールとムチと、彼女の目に恋をした。
名前を覚えておこう、椿、だ。
★★★
ってことで。おれはいま、深夜のファミレスにいる。
正確には館林椿にカバンで殴られ、頭をかかえてテーブルでうめいているんだ。
腹のなかは、怒りで煮えくり返っている。
彼女に対してじゃない。この場をセッティングし、おれにセリフを教え込んだクソボス、深沢さんに対してだ。
『いいか、シンジ。椿はすなおだ。そこにつけこめ。正直に“自分はEDだけど、あなたとはヤレそうです。女王さまをやって下さい”ってな』
くそ。
こんなアホなことをそのまま言った十五分前のおれに、死ねといいたい。
彼女が、ファミレスの出口に向かって歩いているのが見える。
ぼさぼさの髪、毛玉だらけのトレーナー、ヘンな色のデニム。
ああもう、もっとかわいい服を着せたい。おれが、頭のてっぺんからつま先までぜんぶ変えてやる。白い肌が映える服を着せたい。
こんなふうに思うのは、はじめてだ。これが恋なんだろう。一瞬で終わりそうな恋だけど。
おれが机につっぷしていると、どこかでポーンと電子音が鳴った。
続いて、声がする。甲高い女性の声――?
「やだやだっ! 近づかないで!」
「お客さま、しかしお支払いが、まだ」
「お願い! あたしにさわらないで!」
おれは顔をあげた。この声は、館林椿だ。
見ると、彼女がレジ前でファミレスのスタッフともみ合っていた。スタッフはおとなしそうな年配の男で、どうしたらいいのか困っているようだ。
おれはあわてて駆けつける。
「すいません、どうしたんですか」
「あ、お連れ様ですか。申しわけございません、お支払いをどうなさるか、お聞きしただけなのですが」
「金はおれが払います。言っておけばよかった――え?」
どさっ、と小さな身体が倒れかかってきた。彼女は真っ青な顔で、目を閉じている。呼吸も浅い。だが救急車を呼ぶほどではなさそうだ。
このへんはホテルのバーで毎日酔っぱらいを見ているから、よくわかるんだ。
おれはファミレスのスタッフに頼んだ。
「タクシーを呼んでください。とりあえず、連れて帰ります」
そう、とりあえず。
おれの部屋へ。
★★★
『はあ? 椿を部屋に連れ込んだあ? シンジ、やることが早いじゃねえか』
電話口で、ボスがのんきにそう言った。
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