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第5話 「本当に欲しいものは、いつだって手の届かないところにある」
(StockSnapによるPixabayからの画像 )
「めずらしいな、飯飯塚塚が叱られているのか」
「……井上さん」
おれはスタッフ用喫煙エリアに入ってきた優美な男を見上げた。
井上さん。
コルヌイエホテルのアシスタントマネージャーで、超がつくイケメンだ。
ボスは口をひん曲げて、井上さんを見た。
「余計なこと、言うんじゃねえぞキヨ」
「何も言わない。メインバーはおまえのテリトリーだろ。おれは業務外のことに首を込まない主義なんだ――そんなことより」
井上さんは高級そうなダークスーツの肩をすくめた。
百九十センチのボスと、ほぼ同じ身長。でも似ているのは身長だけ。ボスがちょっと崩れたヤンキー系だとしたら、井上さんは正統派イケメン。切れ長の目にスッとした鼻筋。ボスみたいにケンカで鼻を折ったりしない。
いつも特注らしいダークスーツを着ていて、ぴたりと決まっている。バーテンダーの制服すら崩してしまうボスとは正反対だ。
この二人は同期入社で、子どものころから親友だと聞いた。
羽虫をふみつぶすブルドーザーみたいなボスの目つきすら、平気で流せるのは、井上さんだけだろう。
「そんなことより、メインバーに女優のメイさまが来ていらしたぜ。上客を放っておくなよ、洋輔」
「――ちっ」
ボスは舌打ちすると喫煙エリアを出ていった。
おれはゆっくりと立ち上がり、煙草を吸っている井上さんにきちんと礼をした。
「助けていただきました、ありがとうございます」
「飯塚くん。きみがミスをするとは、どうしたんです? いつもは深沢のカバーに回るほど、うまくやれているでしょう」
井上さんはおれを見た。男から見ても、息をのむ美貌だ。おまけにホテルマンらしく動作がやわらかい。
だけどボスにあざができるほど蹴とばされるより、井上さんにチラ見されるほうがよっぽどこわい。いつも、こっちが凍こおりつききそうな眼をしているからだ。
だけど今日の井上さんは何か違う。いつもなら鋭すぎる視線が、どこか温かいみたいだ。相手を切りつけるだけでなく、切りつけた後の傷まで引き受けるような広さと深さ。
だから思わず言ってしまった。
「恋しているんです――ああ、いや、忘れてください、井上さん」
井上さんは煙草を長い指で持ちなおした。
「きみがか? メインバーの優等生が、恋か」
「いえ、その。あ、仕事が」
急いで出ていこうとすると、井上さんが笑った。
「わかりますよ、飯塚。おれにだって惚れた女がいる」
「はあ……ええっ!」
思わず振りかえると、ダークスーツに包まれた井上さんの身体から、まぶしいほどの光がきらめいた。
「おかしいですか。おれみたいな冷血が、恋だの女だのと言うのは」
「そんなことないですが……幸せなんですか、井上さん」
井上さんは煙草をくわえて笑った。くそ、文句なくカッコイイ。
「どうだろうね。この先の人生ぜんぶを彼女に賭けると――おれはそう決めたんです」
井上さんは、この世のものと思えない美しい貌かおで笑った。
「飯塚。どんな男だっていつまでも優等生ではいられません。恋しているなら、その女性を手放さないことです」
「まだ……手に入れていません」
すると井上さんはにやりと笑い
「だったら、どんな汚きたない手を使ってでも、手に入れるんですね。惚れた女がいると世界が変わりますよ」
「……何が違うんでしょう」
井上さんはなめらかな動作で、煙草を灰皿に押しつけて捨てた。
「そうだな……温かくて、柔らかい感じだ。まるで、女にずっと包まれているみたいですよ。それも、ただの女じゃない」
ぽん、と肩に手が置かれた。テノールの声がささやく。
「おれの女のナカだ――天国だぜ、飯塚」
そのまま立ち去る井上さんを見て、おれは腰が抜けた。
あのひとは守るべき人を知り、守られる幸せも知っている。
逆におれは、守りたい人にふれることすらできない。椿ちゃんは男恐怖症だから。おれはEDだし。
どっちも一歩を踏み出せないままだ。どうせずっと、このままなんだ。
いつだって本当に欲しいものは、手の届かないところにある。
人をはねつける、ざらざらした余白よはくがおれを取り巻いている。
記憶にあるかぎり、あの11歳の日からずっと。
★★★
ボスにさんざん蹴とばされてから、十日たった。
そのあいだに二回、椿ちゃんと会った。会ったと言っても、めしを食っただけ。
ちなみに、椿ちゃんはものすごいスピードで食う。断食中のハリネズミみたいな速さだ。そして食い終われば、すぐバイバイ。おれはがっくり肩を落とす。
それでも彼女に何か食わせるのは楽しかった。金のない椿ちゃんは、いつもお腹を空かせている。真剣に食べるところが、かわいい。
ついでにいえば、金がないからいつも同じ服だ。
よれよれのトレーナー、デニム、スニーカー。色は黒かグレー。ピンクやオレンジなんて絶対に着ない。
彼女に、服を買ってやりたい。
椿ちゃんは目が大きくてかわいい。鼻がちっこくて、かわいい。ぽちゃっとしてて胸がデカい。きれいなワンピースが似合うだろう。
本人はいやがって、着ないだろうけど。
服なんて、買わせてくれないだろうけど。
おれは単なる“ロストバージン予定者”だから、精神的にも物理的にも近づかせてもらえないんだ。
そして今日が三回目のデート……って、ただの送迎だけど。SMバーの仕事が終わったら、送って帰るだけ。
深夜のSMバー“ダブルフェイス”のカウンターに座ってため息をつく。
そこへ甘いにおいが漂ってきた。
「ヅカくぅーん、椿のお迎えかなあ?」
ゆさっと、顔の横で良い匂いが揺れる。
「あ……エミリ……女王、さま」
ほわんっと、肘に柔らかい肉が押し付けられた。
これはひょっとしたら――? そっと、自分のデニムパンツを見つめる。
どうなんだ、おれ?
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