第5話 「本当に欲しいものは、いつだって手の届かないところにある」

1/1
前へ
/21ページ
次へ

第5話 「本当に欲しいものは、いつだって手の届かないところにある」

4224692c-dc9b-49ac-8990-741e90696f5c(StockSnapによるPixabayからの画像 ) 「めずらしいな、飯飯塚(いいづか)塚が叱られているのか」 「……井上さん」  おれはスタッフ用喫煙エリアに入ってきた優美な男を見上げた。  井上さん。  コルヌイエホテルのアシスタントマネージャーで、超がつくイケメンだ。  ボスは口をひん曲げて、井上さんを見た。 「余計なこと、言うんじゃねえぞキヨ」 「何も言わない。メインバーはおまえのテリトリーだろ。おれは業務外のことに首を込まない主義なんだ――そんなことより」  井上さんは高級そうなダークスーツの肩をすくめた。  百九十センチのボスと、ほぼ同じ身長。でも似ているのは身長だけ。ボスがちょっと崩れたヤンキー系だとしたら、井上さんは正統派イケメン。切れ長の目にスッとした鼻筋。ボスみたいにケンカで鼻を折ったりしない。  いつも特注らしいダークスーツを着ていて、ぴたりと決まっている。バーテンダーの制服すら崩してしまうボスとは正反対だ。  この二人は同期入社で、子どものころから親友だと聞いた。  羽虫をふみつぶすブルドーザーみたいなボスの目つきすら、平気で流せるのは、井上さんだけだろう。 「そんなことより、メインバーに女優のメイさまが来ていらしたぜ。上客(じょうきゃく)を放っておくなよ、洋輔」 「――ちっ」  ボスは舌打ちすると喫煙エリアを出ていった。  おれはゆっくりと立ち上がり、煙草を吸っている井上さんにきちんと礼をした。 「助けていただきました、ありがとうございます」 「飯塚くん。きみがミスをするとは、どうしたんです? いつもは深沢のカバーに回るほど、うまくやれているでしょう」  井上さんはおれを見た。男から見ても、息をのむ美貌だ。おまけにホテルマンらしく動作がやわらかい。  だけどボスにあざができるほど蹴とばされるより、井上さんにチラ見されるほうがよっぽどこわい。いつも、こっちが凍こおりつききそうな眼をしているからだ。  だけど今日の井上さんは何か違う。いつもなら鋭すぎる視線が、どこか温かいみたいだ。相手を切りつけるだけでなく、切りつけた後の傷まで引き受けるような広さと深さ。  だから思わず言ってしまった。 「恋しているんです――ああ、いや、忘れてください、井上さん」  井上さんは煙草を長い指で持ちなおした。 「きみがか? メインバーの優等生が、恋か」 「いえ、その。あ、仕事が」  急いで出ていこうとすると、井上さんが笑った。 「わかりますよ、飯塚。おれにだって惚れた女がいる」 「はあ……ええっ!」  思わず振りかえると、ダークスーツに包まれた井上さんの身体から、まぶしいほどの光がきらめいた。 「おかしいですか。おれみたいな冷血が、恋だの女だのと言うのは」 「そんなことないですが……幸せなんですか、井上さん」  井上さんは煙草をくわえて笑った。くそ、文句なくカッコイイ。 「どうだろうね。この先の人生ぜんぶを彼女に賭けると――おれはそう決めたんです」  井上さんは、この世のものと思えない美しい貌かおで笑った。 「飯塚。どんな男だっていつまでも優等生ではいられません。恋しているなら、その女性を手放さないことです」 「まだ……手に入れていません」  すると井上さんはにやりと笑い 「だったら、どんな汚きたない手を使ってでも、手に入れるんですね。惚れた女がいると世界が変わりますよ」 「……何が違うんでしょう」  井上さんはなめらかな動作で、煙草を灰皿に押しつけて捨てた。 「そうだな……温かくて、柔らかい感じだ。まるで、女にずっと包まれているみたいですよ。それも、ただの女じゃない」  ぽん、と肩に手が置かれた。テノールの声がささやく。 「おれの女のナカだ――天国だぜ、飯塚」  そのまま立ち去る井上さんを見て、おれは腰が抜けた。  あのひとは守るべき人を知り、守られる幸せも知っている。  逆におれは、守りたい人にふれることすらできない。椿ちゃんは男恐怖症だから。おれはEDだし。  どっちも一歩を踏み出せないままだ。どうせずっと、このままなんだ。  いつだって本当に欲しいものは、手の届かないところにある。  人をはねつける、ざらざらした余白よはくがおれを取り巻いている。  記憶にあるかぎり、あの11歳の日からずっと。 ★★★  ボスにさんざん蹴とばされてから、十日たった。  そのあいだに二回、椿ちゃんと会った。会ったと言っても、めしを食っただけ。  ちなみに、椿ちゃんはものすごいスピードで食う。断食中のハリネズミみたいな速さだ。そして食い終われば、すぐバイバイ。おれはがっくり肩を落とす。  それでも彼女に何か食わせるのは楽しかった。金のない椿ちゃんは、いつもお腹を空かせている。真剣に食べるところが、かわいい。  ついでにいえば、金がないからいつも同じ服だ。  よれよれのトレーナー、デニム、スニーカー。色は黒かグレー。ピンクやオレンジなんて絶対に着ない。  彼女に、服を買ってやりたい。  椿ちゃんは目が大きくてかわいい。鼻がちっこくて、かわいい。ぽちゃっとしてて胸がデカい。きれいなワンピースが似合うだろう。  本人はいやがって、着ないだろうけど。  服なんて、買わせてくれないだろうけど。  おれは単なる“ロストバージン予定者”だから、精神的にも物理的にも近づかせてもらえないんだ。  そして今日が三回目のデート……って、ただの送迎だけど。SMバーの仕事が終わったら、送って帰るだけ。  深夜のSMバー“ダブルフェイス”のカウンターに座ってため息をつく。  そこへ甘いにおいが漂ってきた。 「ヅカくぅーん、椿のお迎えかなあ?」  ゆさっと、顔の横で良い匂いが揺れる。 「あ……エミリ……女王、さま」  ほわんっと、肘に柔らかい肉が押し付けられた。  これはひょっとしたら――? そっと、自分のデニムパンツを見つめる。  どうなんだ、おれ?
/21ページ

最初のコメントを投稿しよう!

74人が本棚に入れています
本棚に追加