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第6話 「うちは健全なSMバーなんで。恋はいらないでしょう」
「椿(つばき)は、ゴミ出しに行っているからね。あれが終わったら――」
エミリさんはすうぅと近づいてきた。Gカップの胸がさりげなく、腕に当たる。
「あの子、ちゃんと家に連れて帰ってね」
「もももも、もちろんです」
うわずった声で答えた。
エミリさんは椿ちゃんのお姉さんだ。このバーのナンバーワン女王様。ボディサイズは上から94㎝、68㎝、89㎝。
「ありがと、ヅカくん」
エミリさんの息が耳にかかる。すごい色気だ。全身からエロい空気があふれかえっている。ほかの女性とはケタが違う。
この世の“カワイイ”を指先で跳ね飛ばす過剰な色気が全身に満ち満ちている。ぼうっとしていると、エミリさんがおれの顔を指先でつついた。
「うふふ、かわいい。ヅカくんったら」
エミリさんの爪は短く切りそろえられていて――長いと、汚物おぶつを扱う時に隙間すきまに入り込んでいやなのよね、と言っていた――真っ赤に染められている。
爪を眺めているとエミリさんはニヤリと笑った
「ねえ、どうしても椿がやってくれないなら、あたしの手を、貸してあげようか?」
「え、は? 手?」
くくっと、目元にしわが寄らない形でエミリさんは笑った。
「ピンクのマニキュアを塗ったら、椿にさわってもらっているみたいでしょ。ヴァージンの手つきで、やって、あ・げ・る」
「あの、そのそのその」
あたふたしているとエミリさんはグイッと近づいてきた。
「知りたいだろうから、教えておくね」
と耳に肉厚な唇を寄せてきた。
「椿、意外と女王さまの才能があったみたい。トレーニングは順調よ」
「じょうおう、さま」
のどがカラカラでうまくしゃべれない。ごくっ、と唾を飲む。
エミリさんがふふふと笑った。
「いいわねえ、恋しちゃってんのね」
もう声も出ない。何よりも情けないのはエミリさん相手でも身体がぴくりともしないことだ。これが椿ちゃんなら、不機嫌なくしゃみひとつで、おれはもう反応しそうになるのに。
エミリさんは笑ったまま続けた。
「今の椿は一本ムチとバラムチ、基本の手首緊縛を覚えたところよ。あとはローソクとヒールの使い方をマスターすれば、基礎の基礎は終わりかな」
「はあ」
「もう少し時間をくれたら本格的な“縛り”まで仕込めるかも。どうする、ヅカくん?」
「基礎の基礎、で十分です」
おれは助けを求めるべく、カウンターにいる中年のバーテンダーに視線を送った。
鼻と耳がひしゃげているバーテンダーはむっつりと黙ったままだ。エミリさんは手の中のムチをひゅんひゅんしならせた。
「恋っていいわねえ、テラさん」
テラと呼ばれたバーテンは、すっぱい顔で答えた。
「うちは健全なSMバーなんで。恋はいらないでしょう」
その時、カタンとバーカウンターの奥から音がして椿つばきちゃんが入ってきた。そっけない黒のトレーナーとデニム。おれの心臓は飛び跳ねて、身体中に熱が走る。
「つ……椿ちゃん」
「ドーモ」
返事はこれだけ。
それでも椿ちゃんがカウンターに来ただけで、ぴぃんとする感じだ。
椿ちゃんはおれなんか見えていない感じでバーテンに言った。
「テラさん。さっきゴミ出しにいったら、奥の方で音がしたみたいなんですけど」
「音? 野良猫かな」
首をかしげて、
「じゃあゴミ出しは俺がやっておくから。椿さん、お疲れさま」
「いいです。ゴミまで片付けていきます」
そう言うと彼女は裏口へ消えた。おれはなんとなく嫌な予感がして立ちあがった。
「見てきますよ」
「野良猫だと思うけどねえ」
と、エミリさんはのんびりとそう言った。
「ええ、たぶんそうでしょう」
そう言いながら、もうドア前にきた。
なぜだか、無性にイヤな予感がする。
冷え込む十一月の夜へ出ていったとき、月もない路上に甲高かんだかい声が響き渡った。
こんな高パルスの悲鳴、ひとつしかない。深夜のファミレスで男性スタッフにさわられそうになったとき、椿ちゃんが吐き出した悲鳴と同じだ。
暗い路地を一気にダッシュ――と思ったら、
「どわっ、がっ、ががっ!」
あせった。足がもつれる。顔から地面に突っ込む。急いで立ち上がり、バーの裏口へ回った。
街灯の届かない路地裏で、椿ちゃんが男ともみあっていた。叫び声が続く。
「やだやだ、離してっ さわらないでえええっ!!」
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