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第7話 「おれの大切なひと」
(Ryan McGuireによるPixabayからの画像 )
暗い路地裏で、人間がもみ合っている。
ひとりは椿(つばき)ちゃん、もうひとりは知らない男だ。小柄でがっちりしたアホ男は、おれと同じくらいの年に見えた。
そいつは、やけにガラガラした声で椿ちゃんに話しかけた。
「たのむよ。ちょっとでいいんだ、エミリ様に会わせてくれ」
「近づかないでっ!」
「これも、エミリ様の放置プレイだよな。それにしてももう三週間も店に入れてくれないとは、プレイにしてもひどいだろ」
そいつはまだ椿ちゃんにさわっていない。でもすぐに手が届きそうだ。
腹が立つ。
おれはそんな距離まで、近づいたことない。あの距離なら髪の匂いまで分かりそうだ。どんな匂いだろう……椿ちゃんは、お金がないから一番やすいシャンプーを買うって言ってた。
シャンプーくらい、買ってあげるのに。なんだったら、おれがシャンプーをしてあげるのに。椿ちゃん、喜ぶかな。
『あんっ、やだっ、くすぐったい。飯塚さんったら💛』
なんて言っちゃったりして……。
おれの甘い甘い妄想はそこで終わった。椿ちゃんの怒鳴る声が飛んできたからだ。
「飯塚さんっ!! 助けにきたんじゃ、ない……ん、です、かっ!!」
あわてて走っていく。だがすぐ転んだ。
冷たいアスファルトの道路に頭から突っこんだ。
「痛え……うげっ! 椿ちゃん!?」
いきなり、重いものが背中にのしかかった。椿ちゃんだ。男から逃げてきた椿ちゃんはつまづいて、背中に乗ってきたんだ。
おれは椿ちゃんとアスファルトのあいだにいる。
あ。
じゃあこれ。
おれの背中に当たっている、やわらかいものは――
お尻。
椿ちゃんの……お尻……。
そこまで考えたら、一気に熱が押し寄せてきた。荒れる海が白波を立ててくる。
……来るのか?
ついに来るのか、おれ!?
すべての力を身体の一点に集中しかけた時――背中がふわっと軽くなった。
「え。椿ちゃん?」
あわてて起き上がると、おれの目の前に見知らぬ男が椿ちゃんの腕をつかんで立っていた。男は胸には龍とトラ柄が付いているスタジャンを着ていた。
龍とトラが、めちゃくちゃに揺れていた。
腕をつかんでいる椿ちゃんが暴れているからだ。
「はなしてっ! くわのさん……店には……出禁でしょ……」」
「おいおい、おれは常連だぜ? エミリさまが会ってくれれば、おとなしくしているよ」
「会い、ませんっ! お店、こわしちゃった、くせに」
息を切らしながら、椿ちゃんは男にさからっている。おれはアホ男が背を向けたすきにとびかかった。
「ぐあ!」
男の首筋を締め上げる。どうでもいいが、バカに太い首だな、格闘技とかやっているのか……。
どうでもいい、集中しろ。
おれはぎゅうぎゅうと男の首を締めあげた。
ついでにそいつの手から椿ちゃんを自由にしようと思ったら――どんっと鋭い痛みが胸を襲った。
男が予想以上にすばやく身体を返して重いパンチを繰り出してきた。衝撃によろめくと、いきなりケリが来る。
――ぱき。
かすかな音がした。
音は小さく、衝撃はゼロ。なのに痛みが走った。おれは倒れる。
「たすけてっ! イイヅカさ……」
椿ちゃんの悲鳴が止まった。意識が飛んだみたいだ。スタジャン男は、彼女の小さな身体を軽々とかついだ。
おれを見て、にやりとした。
「エミリに言っとけ! 妹を助けたきゃ、俺の予約を受けろってな!」
「椿をはなせ」
「この女は大事な人質だ。エミリ女王さまと会うまで、俺があずかる」
男は椿ちゃんを連れて大通りへ向かう。
おれは立ち上がりかけて、また倒れる。
うそだろ、呼吸するだけで痛い。どうやったら椿ちゃんのところへ行けるんだ。
とにかく這いずっていく。立ち上がるのはムリだ。
そのとき路地の手前に、スッと車が出てきた。スタジャン男には仲間がいるらしい……車のドアが開き、椿ちゃんは荷物みたいに放り込まれた。
男が助手席に乗り込むと、車はすぐに走り出した。
「くそ――助けなきゃ、つばき」
なのにおれは、立ち上がれない。
ああ。こんなとき、マンガや映画ならヒーローが助けに来るのに。イケメンで、メチャクチャ強いヒーローが。
……いるじゃん、ひとり。そういう感じの人が。
イケメンだけどヤンキー。メチャクチャ強いけど、どS。ヒーローじゃないが、確実に椿を助けてくれる人。
おれは必死でスマホを取り出した。
六回目のコールの後、超絶にキゲンの悪いボス、深沢さんの声がした。
「あほ。たったいま、女のシャツを脱がしたとこだ、切るぞ」
「ボス……つばきを、さらわれた」
「―――どういうこった、シンジ」
ぞくっと、おれの身体に恐怖が走った。
電話しなきゃよかった。名前を呼ばれただけで、もうちびりそうだ。
黙っているとスマホから露骨な舌打ちが聞こえた。
「てめえ、今どこにいる」
「バー"ダブルフェイス"です。裏口に、男がいて椿を――」
言い終わらないうちに通話が切れた。スマホを放り出して、目を閉じる。
椿ちゃんの悲鳴が、耳から離れない。
『たすけて、イイヅカさん』
椿はおれに向かって、言ったんだ。助けてって。
なのに、何もできなかった。アホ男に良いようにされ、路上で倒れているだけだ。おまけに息をするだけで、痛い。
「く……っそおおおお!」
勢いをつけて、一気に立ち上がる。痛い痛い。わかっているけど、寝ているだけじゃ椿は戻ってこない。おれは一歩ずつ、SMバーに向かって歩きだした。
右足、左足、右足。椿は連れていかれた。おれのせいだ。左足、右足。
バーのドアが見える。歩くと痛い、動くと痛い、呼吸すると痛い。
それが、なんだってんだ。
椿を取り戻すより大事なことが、この世界にあるか?
おれは全身の力を振り絞り、SMバーのドアを開けた。むっと熱気がおそいかかる。
ここで倒れれば、ボスが椿を助けに行ってくれるんだろうが。
それじゃだめだ。
おれが、椿を、助ける。なぜなら椿は――大事な女だからだ。
オトコがこの先の人生を賭けて、後悔しない女なんだ。
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