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第9話 「コマがそろった。行くぜ!」
深夜二時。
ボスはどこかに消えて、すぐに赤い軽自動車に乗って戻ってきた。この時間だ、レンタカー屋が開いているはずがない。まともな手段で借りてきたものじゃないんだろうけど、今は何も知りたくない。聞きたくない。
アホ男どもにつかまっている椿つばきちゃんのところへ行くのが先決だ。
おれは軽自動車の助手席にすわった。
「何をしましょうか」
ボスは薄く笑った。
「何にも考えんな、シンジ。てめえはハナっから、数に入っちゃいねえよ」
「え……まさかボスがひとりで行くんですか? 相手は何人いるかわからないですよ、危ないです」
SMバー‟ダブルフェイス”の裏口でおれを襲った連中は、ケンカに慣れていた。
とくに龍とトラのスタジャンを着た男は、人間の急所を知っているうえに、ねらったところは確実なパンチを打ち込める男だった。きっと仲間も同じだろう。
たとえボスでも、連中のたまり場に一人で行くのは危険だ。
でもボスは運転しながら鼻で笑った。
「バーカ、あばらを2本やられているお前に何ができるんだよ。俺だけで十分だが、夜のケンカに一人で行くのはつまらねえよ。
思いきり暴れたいから、シンガリを連れていく」
ボスは口元を邪悪にゆがめた。とても老舗ホテルのメインバーを預かるチーフバーテンダーとは思えない、酷薄な顔つきだ。背筋がぞっとする。
「シンガリって、なんです?」
「ケツモチだよ。あいつがいりゃ、俺も好きなようにやれるからな」
そう言うと、ボスは白い壁のマンション前に車をとめた。都内でも高級住宅地と呼ばれる場所で、子どもがいるファミリー向けのマンション。近くに公園があって、昼間なら子供の声がするだろう。おれやボスには不似合いな場所だ。
「ボス……ここは?」
おれが尋ねたとき、長身の男がエントランスから出てきた。
男はロングコートにパンツというありふれた服装。着ているものがぜんぶ黒いから、闇からいきなり浮かび上がってきたみたいだ。
シャープな骨格と天使も引き下がるような美貌が、夜風に吹かれていた。
「……え?」
おれは思わず目をむいた。
まさか――井上さん?
都内でも有名な高級ホテル、コルヌイエのレセプションカウンターを優雅に仕切り、ゲストに対してもスタッフに対しても柔らかい物腰で対応する井上さんが、ボスと一緒にケンカに行く?
おれはもう、助手席で口を開けているばかりだ。
井上さんは何も言わずに、後部座席に乗り込んだ。狭い軽自動車のバックシートに音もなく座る。
「いのうえ、さん」
「いったい、このクズ男と何をしているんです、飯塚?」
井上さんの視線は、炎さえ消せそうなほど冷たい。踏みつぶす価値もない虫を見るような目つきだ。さっきのボス以上に、ホテルマンにふさわしくない表情。
このひと、コッチが本性なのか? もうさっきからイヤな汗が止まらない。忘れていた痛みがよみがえる。
こえええ。
やっぱり、帰ればよかったかな……。
黙っていると、ボスが陽気にアクセルを踏み込んだ。
「さて、コマがそろった。行くぜ!」
車は一気に加速した。メーターを見なくても、時速120キロ近くまで行っているのが分かる。車はビル風を受けてふらつく。ボスはそんなもの全く気にしないで、ひたすらアクセルを踏み続ける。
猛スピードで鳥居坂下とりいざかしたの信号をつっきり、六本木ヒルズゲートタワーの横をかすめて、かっ飛ばしていく。鼻歌つきでゴキゲンだ。
バックシートの井上さんは黙っている。おれはどうしても納得できなくて、聞いてみた。
「あの、井上さんはなぜ来たんですか」
「呼ばれたんですよ、このバカに」
「うるせえぞ、キヨ」
ぎゅいっとボスは車を急カーブさせた。シートベルトをしていても身体がかしぐ衝撃。折れているんだか、ひびが入っているんだかわからないアバラ骨が、ぎぎっときしんだ。
「がはっ!」
気が遠くなりそうに、痛い。ボスは薄笑いを浮かべて、こっちを見た。
「車といっしょに揺れるんだよ、シンジ。ちっとは痛みが、楽になる」
「――痛み? どういうことです、飯塚」
あああああ。井上さんの声が冷たい。全身からイヤな汗が噴き出す。おれはバックシートを見ないようにして、答えた。
「あのう、あばらを、ちょっと」
「折れたのか?」
「いえ、ボスは骨折まで行ってない、ただのヒビだって」
「このバカの言うことは信じるな、飯塚。いつだって出まかせだ。折れているかもしれないぞ。そんな身体で、どこへ行こうっていうんだ」
一瞬だけ、考える。一体どこへ行こうとしているんだろう。行先を知っているのはボスだけだ。
え、ボスだけ?
「井上さん、行先を知っていますか?」
「知りません」
「……何をするのか、知っています?」
「知りません」
「あの、ひょっとして椿ちゃんの知り合いですか?」
つばき? と、井上さんは不思議そうな声をだした。おれはあわてて後ろを向いて、説明する。くそ、身体をひねると痛い。
「舘林 椿(たてばやし つばき)です。あ、おれのカノジョですけど」
「ああ。例の、きみの恋人ですね。いや、知りませんよ」
え?
まさかこのひと、まったく知らない女を助けるために、深夜に呼び出されたのか?
混乱しながら、もう一度聞く。
「え、あの、井上さん、何も知らずに出てきたんですか」
おれは思わず大声をだした。井上さんは、心底いまいましい、という顔で運転席にいるボスを見た。
「このバカが、行動する前に説明する男かよ。洋輔、やっぱりおれは帰る」
えええええっ!? ここにきて、それは勘弁してください、井上さん……。
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