煙草と月時雨

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煙草と月時雨

 街が斜陽に飲み込まれていく。ビルたちが紫色の影に溶けていき、やがて街の夜景の一要素となる。人口の明かりが夜を支配する様はどこかもう戻れない所まで来た空恐ろさを感じた。僕と君は大学の屋上からその風景をただ眺めていた。トレンチコート越しに人の温かさを感じる。君の手が僕の手にそっと、怖いものを触るように慎重に触れる。その手は少し震えていた。僕は君がこのあと何を望んでいるのか分かっていたから、その望みのままに触れてきた君の手の指に、僕の指を絡めた。彼女は嬉しそうに僕に微笑んで、「綺麗だね」と花の咲くような明るい声で僕にいう。僕もおなじように笑顔を浮かべて頷く。  けれど僕は君への態度とは裏腹に、胸の中ではかすかに、君の声がへの思いを募らせて、やがて後悔で死んでいった僕の心の鎮魂歌になればいいのに、とそう思っていた。 ―――  僕が彼女と出会ったのは、僕が高校二年生になって、すぐのことだった。僕が通っていた個別指導の塾の英語の担当が変わり、おじいちゃんの先生から、当時大学三年の先生になった。その時のことを僕はまだ明確に覚えている。僕はその時は、女性と話す機会と言ったら、家か学校の二択しかなかった。けれど、思春期の真っ只中にいた僕は学校では、ほとんど同性としか話さず、家でも母親という息子にとっては女性と含めてよいか分からない存在としか話さなかった。  なので、先生と話すときはただひたすらに緊張した。先生はそんな僕に「よろしくね」と微笑んだ。  それからは最初こそかなりぎこちなかったものの、油を指されたブリキの玩具が引っかかりもなく動くようにすいすいと会話が続くようになり、打ち解けていった。僕は塾の授業中に先生と色々なことを話した。学校のこと、家族のこと、いろいろな人のこと。先生も大学での生活や、青春時代を過ごした地方都市での話、たまに実家暮らしだったときの愚痴を言って、僕はそれに笑いながら乗っかって、時には授業時間を雑談で終える時もあったのを覚えている。僕と先生は連絡先を交換するぐらいには仲良くなった。  僕はそんな先生との日々を送るうちに、まあ一週間に一度の頻度でしか会わなかったわけではあるが、心惹かれている自分がいることに気が付いた。それはどこか不思議な感覚で、例えるなら絶対に得るはずのないものが空からすとんと落ちてきてしまったような、そんな感じだった。  そんなある日。高校二年生も終わりが近づき、そろそろ受験のことを考えなくてはならないという僕の気持ちにぴったりと沿うように、ほの暗い雲から白い雪がちらつき始めた日のことだ。  僕は塾を出ると、財布を忘れていることに気が付いた。塾の中に置き忘れたに違いない。僕は雪を払いながら引き返し、塾の入っている雑居ビルに戻ろうとした。  その時、僕はこっちに向かって走ってくる女性に気が付いた。先生だ。しかもよく見るとその手には財布が握られている。どうやら気が付いて届けてくれたらしい。 「これ! わすれもの」 「あ、ありがとうございます」  僕と先生は街の雑踏を並んで歩く。空の色は青色から紫色に変わり、繁華街には仕事終わりのサラリーマンや学校終わりらしい大学生、高校生の姿が多くあり、それぞれの一日の終わりの形が街を彩っていく。  先生はその中の一団を見て「君も来年あそこに入れると良いね」と何とも言えない意地悪な笑顔を僕に向けてきた。僕は受験というものを今までで一度しか経験していないうえに大学受験の厳しさは二年生のニ学期あたりから聞かされていたのでとても不安な気持ちを抱えており、そしてそれは先生も分かっているはずなのだ。なのにそれを言ってくるとはいつもの先生らしくもない。僕はちょっと尖った声を出してしまった。 「まあそうですね」 「まあ、頑張ればなんとかなるのよ。あ、でも勉強勉強じゃいけないからね。息抜きもしようね」  なるほど、これを言うために切り出した話らしい。でも、それは僕が心がけたいなと思っていたことで、そして今の僕はこれからその心がけを実践しに行くところなのだ。 「今からちょうどその息抜きに向かうところだったんですよ」  僕がそう言うと先生は少し首を傾げたのち、思い立ったような表情をする。 「あ、そういえば、君の家ってここから……」 「はい。反対ですよ。これからゲーセンに行くんです」  それを聞いた先生は少し眉をひそめる。先生がゲームセンターは不良のたまり場という偏見を持っているらしいというのは普段の会話から判断できた。でも、その一方で先生はゲームセンターへの若干の好奇心も持っているということを僕は手に取るように分かっている。先生がそのしぐさをしている時はそういうことなんだと、僕はこの一年のうちに理解していた。 「……じゃあ一緒に来ます?」  先生は時間を置いて考えたのちに、「行く」と短く答えた。  結局、先生は最初こそ周りをびくびく警戒していたものの、クレーンゲームやメダルゲームをやるうちにその沼にはまったらしい。僕がアーケードゲームを終えて、先生のもとに行くと、その腕には大きなぬいぐるみが抱えられていた。 「意外と良いところねえ」 「そうでしょう?」 「ね、また来ない? いい息抜きになるよ」  それから先生と僕は二週に一回のペースで帰りにゲームセンターによることが習慣になった。なぜ、二週に一度かというと僕の月二千円のお小遣いでは毎週来ることは難しかったし、迫りくる受験への焦りもあった。僕はたまに休憩を設けないとやっていけない質の人間なのだが、毎週来るのは遊んでるように思われそうだからである。  さて、カレンダーが2か月分めくられ、最初の模試の返却があった日のことだ。塾の授業前に模試の結果の紙が教室長から渡された。判定はB判定、合格可能性60%とまずまずの数字をたたき出した。初めてにしては……と思っていたら塾の教室長から「ここで油断したやつが落ちるんだからな? いいな?」と脅される。僕は少しげんなりしながらその紙を持って先生の待つブースへと向かう。そこにはいつも通り先生が座っていたのだが、どうにも様子がおかしい。どこか沈んでいるような、体の中の感情のエネルギーがしぼみゆく風船のようにぬけでてしまっているような。そういえば、先生は教育実習の関係でニ週間ほど休んでいたのだ。もしかしたらそこで何かあったのかもしれない。 「なにかあったんですか?」  僕がそう聞くと、先生は明らかに動揺したそぶりを取った。だが、すぐにそれを取り繕うといつも通りのにこやかな顔に戻る。ほんにはそれで取り繕えた気なのかもしれないが、何かあったらしいということはバレバレだ。 「いや、なんでもないよ。じゃあ授業を始めよっか」  そう強引に授業を始めたものの、その授業の間、先生の表情は取り繕われた不自然な笑顔のままだった。 「で、結局なにがあったんですか?」  僕はまた先生に聞いた。だが今度はゲームセンターの休憩所でだ。僕はコーラを、先生は缶のアイスコーヒーを手に持っていた。ゲームで遊んだからか、少し気持ちが上向きになっていたのかもしれない。先生は少し自嘲気味に笑いながら話した。 「教育実習先でちょっと、ていうかなかなかうまくいかなくてね」 「初めてのことなんだし、当たり前じゃないですか?」 「そうなんだけど、どうにもねえ」 「教員、向いてないのかなあ」  その口調こそ軽かったものの表情はどこまでも夜闇よりも暗かった。それを見てああ、そうかと僕はある一つの結論に落ち着く。成功体験とは暗い夜道を照らす懐中電灯だと誰かから聞いたことがある。そしてこの人にとって、教師になるという夢は自分の全てなのだ。だから今回あまりうまくいかなかったことは先生にとって、未来の真っ暗な道を懐中電灯なしで歩まなければならないことと同義なのだと。もし、解決策があるとすれば、それは代わりのものを懐中電灯にすることだ。 「先生」 「うん?」 「僕は先生のために大学に合格します」 「え?」  暗かった顔が今度は驚きで染まっていく。 「僕にとって先生は先生です。だから今回うまくいかなくても、僕が合格すれば、それは先生のおかげです」  今から思えば、もしここで僕がまた先生に違った言葉をかければ、今後の付き合い方次第で先生とは恋人同士になれただろう。僕が想いを伝えきれずに後悔することもなかったのだろう。でも、僕はこの瞬間への後悔は微塵もない。今の後悔は想いを伝えきれなかった臆病な自分への後悔であって、この瞬間の啖呵への後悔ではない。だって、その時の先生の顔は本当に嬉しそうに見えたのだから。 「……ありがとう」 「だから先生も頑張ってください」  その日、僕は先生が煙草を吸うところを初めて見た。ヘビースモーカーと言うほどのことではなく、一日に一本吸うか吸わないかぐらいだそうだ。 「どんな味がするんですか?」 「苦いよ。でもたまにこの苦さが欲しくなる時があるの」 「へー。どんな時ですか?」 「自分をひたすら責めたいとき」  夏休みが終わってからは嵐のように日々が過ぎていった。勉強勉強、休日は模試。受験が刻一刻と近づいてくるごとに、僕の心臓を緊張が縛り上げ、眠ろうとする僕を叩き起こす。いつしか僕は十分に眠れることができなくなってしまった。今思い抱いても辛い。とても辛かった。  眠れぬ日々が続き、時期が秋から冬に挿し変わる時、眠れない僕はいつも通り机に向かっていたのだが、ふと雨の音を聞いたのだ。窓の方を見てみると月明かりが差し込んでいる。ということは外は晴れているはず。でも雨が降っているのだ。 「月明かりなのに、雨?」  そう口に出した時、僕は無性にこの中を歩いてみたいという欲求にかられた。その欲求を抑えきれぬままに玄関まで行き、古びた傘を手に取る。そして錆びかけたノブを回し、外に出た。  水の粒が傘に当たり、絶え間ない雨という音楽を奏でている。雨粒が街灯と月明かりに照らされて、その光を乱反射させて僕に届ける。いままで深夜の街というものを知らなかったが、昼や活気のある夜の空気とは違い、しっとりとした何かが僕を包み込んだ。これは全能感なんだと僕は何となく思った。今なら望めば空を飛べるような気がしたし、先生に自分の想いを打ち明けることができるのではないかと思った。  ぴちゃぴちゃとコンバースのスニーカーが水たまりを弾く。もうそろそろ塾の近所のゲームセンターにたどり着くところだった。僕が少し顔を上げて前を見た時、横からバシャバシャという音とともに人影が僕に迫ってきていることに気が付いた。 「こんな時間に何をしてるの?」  先生だ。右手で傘を持ち、左手で煙草を持っている。 「なんか寝付けなくて。先生はまた自分を責めてるんですか?」 「そんなとこ。ねえでもこんな時間に出歩いてたら危ないわよ」  先生は自分が言ったことが全部跳ね返っていることに気が付いていないらしい。ほんとに心配そうな顔をして僕を見ていた。 「……でも今から生活リズム崩してもねえ。共通テストもすぐだし。……あ、そうだ。いまから私の家来てよ」 「……は?」  先生の部屋はとても片付いていた。右端には机と椅子、中央にはカーペットが敷かれ、その上にはローテーブルが置かれておりその横にベットが置かれている。なんとも居心地のいい部屋だ。 「部屋、綺麗ですね」 「まあ片づけはしてるからね。どっか好きなところ座ってて」  ベットに座るのはなんだか気が引けたので、ローテーブルの傍に座る。先生の部屋に僕がいる。それも先生と僕の二人きりでだ。僕はその事実に緊張を隠せなかった。先生は狼から隠れる兎のようにがくがくと震えてる僕の心には当然気が付かずに、台所でお湯を沸かしていた。時折、マラカスのような音も聞こえてくる。何を作ってるんだろうという僕が玄関横の台所をのぞき込んだとき、先生がお盆をもって歩いてきてローテーブルの傍に音もなく座る。お盆には湯気の立つティーカップが二つ置かれていた。 「カモミールのミルクティー。これを飲むと神経が落ちつくの。まあ飲んで」  僕は湯気の立つティーカップを持ち口をつける。唇の感覚神経が熱を脳に伝達し、その直後にハーブティー独特の香りと味が鼻と舌を抜けた。紅茶に関しては門外漢の僕ではあるがとても美味しく感じた。 「実は趣味なのよ」  僕の視線一つで何を言おうとしているか分かったらしい先生が紅茶をテーブルの上に置きながら言う。なかなか雅な趣味してますね、とか返そうとしたがどうも嫌味たらしく聞こえるのではないかと考えて、結果「そうですね」という無難な返事しかできなかった。  しばらく紅茶を啜る音だけが部屋に響く。無言な空間とはなかなか居心地悪く感じることが多い僕ではあるが、今回ばかりは違った。いつまでも、もう受験とか全て忘れてここに閉じ込められたい気分だ。  だが、夢にはいつか終わりが来る。 「さ、そろそろ2時よ。送ってあげるから帰りましょ」  外に出ると雨はすっかりやんでおり、月明かりを反射する水たまりと湿ったにおいだけが雨の名残を残し、僕たちに伝えてくる。先生はアパートの裏から自転車に乗ってきた。 「さ、後ろに乗って」 「え……でも」 「いいの。どうせ誰も見やしないんだから」  結局、男の見栄というやつで自転車は僕が漕ぎ、先生が後ろに乗ることになった。月明かりと街灯と自転車のライトだけがこの世界を照らす光源となり、僕らはその暗闇の中を突き進む。先生は僕の肩に手を置き、振り落とされまいと必死で食らいつている。なんだかそれがおかしくって、声を出して笑ってしまった。 「あ、ここです」 「へ―広い家だね」  僕と先生は僕の家の玄関前までたどり着いた。親も起きていないらしく、真っ暗で静かな家がそこにはあった。 「あ、そういえば。さっきの雨なんていうか知ってる?」  僕が後ろを振り向くと、長い髪をかき上げて僕に微笑みかけてくる先生がそこにはいた。月明かりを浴びて、雪のように輝く先生はとても綺麗だった。僕の心臓を今までの緊張ではなく高揚感が支配する。その時、僕は今ここで想いを打ち明けたらいいのではないかと思った。小心者の僕でも夜の全能感を借りれば、打ち明けられるような気がしたのだ。  先生がその雨の名前を口ずさむ。それは僕にはスローモーションの映像のように見えた。言え、言え、好きだと言え。 「あの……」 「何?」 「あ、えっと、その……」  ……なぜか、声が出なかった。蝋が喉にこびりついたみたいに、掠れた声しか出なかった。言え、言え、言え。 「……おやすみなさい」 「うん。おやすみ。これからはこんな時間に外に出ちゃだめよ」  僕を嘲笑うみたいに、どこかで猫が鳴いた。でも、その日の夜、僕は久しぶりに眠りに落ちることができた。  それから受験までは、周りから聞いていたよりあっという間だった。カレンダーが12月のページになったと思ったらもう1月、共通テスト前日だ。僕はこの日はいつも以上に早く寝ることにした。掛け布団が僕の緊張に寄り添ってくれているのか、とても暖かい。窓の外には満月が浮かんでいる。ふと、僕はあの日、月夜に雨が降った日のことを思い出した。 「あの雨の名前、なんだったのかな?」  気にはなったが、調べる暇なく僕は眠りに落ちた。  共通テスト、一般受験のことは正直ほとんど覚えていない。感触すらあいまいだった。先生にそれを言うと、「超集中してたってこと。まあ後は結果次第よ」と笑ってくれた。塾の教室長も「まあ、大丈夫だろ。受かる確信があるやつなんてほとんどいない。落ちたっていう絶対の確信さえなければ大丈夫だし、受験は最後まで何があるか分からないから」とハンドスピナーを回しながら他の受験生同様のアドバイスを僕にしてくれた。  結果は、合格だった。Webページに無機質に「合格」という二文字を表示されていて、それを見た瞬間、家族は飛び上がらんばかりに喜んだ。いままでの苦悩の日々。それが報われた瞬間だった。けれど僕にはその実感がなく、家族や友達からの「おめでとう」という言葉も「ありがとう」としか返せなかった。  次の日。もう寝坊しても怒られないので遅めの朝食を食べていると、なんだかじわじわと胸に来るものがあった。今まで感じた嬉しさとは違う、氷が溶けていくような、解放されたという嬉しさだった。むふむふとこの後の真っ白なスケジュールを想いながら食パンをかじっていると、家のインターホンが鳴った。誰だろうと見てみると、モニターにはなんと先生が映っている。僕は慌てて玄関までつんのめりながらも走った。 「聞いたよ!! おめでとう!!!」  先生は近所迷惑も気にせず、大声で僕を祝った。その顔は本当に嬉しそうで、花々が早咲きしていると見紛うほどの笑顔だった。 「ありがとうございます。果たしましたよ、先生のために合格するという約束」 「ほんとによくやったよ。あ、実はねえ私も、まあ言ってなかったんだけど、教員採用試験合格したの!!」  先生も僕との約束を見事果たしたというわけだ。 「それでね、春から地元の方に帰ることになったの」 「……え?」  目の前が真っ暗になった。それはつまり、もう会えないということなのか。でも、僕はそれを口には出せなかった。その時の先生はとても嬉しそうだったから。僕が余計な口を出してその花を萎れさせたくない。 「地元の学校で先生になることにしたの。恩師もいるし、その方がいいかなーて」 「頑張ってくださいね」 「うん。もう時期、卒業だね。私も君も」  卒業式は偉い人の話を聞き、校歌を歌って終わった。中学の時よりはるかに短い、一時間足らずという時間で。僕は教室でみんなと最後の話をし、写真を撮り、学校の近くの定食屋でご飯を食べて過ごした。中にはここによることも最後という友達もおり、泣きながら店主のおばちゃんに今までのお礼を言っていた。おばちゃんは友達を慰めた後、僕に顔を向ける。 「君ももう来れないのかねえ」 「いえ、僕は大学近所なのでまた寄りますよ」 「そうかいそうかい。なら行くとこあるんだろ? そっちに行ってやんな」  おばちゃんは目元に深い皺を作って笑う。おばちゃんの言ったことに疑問を感じたのか友達たちが「行くとこって?」と聞いてくる。 「大事な人が、いるんだろう?」 「……よく、分かりますね」  今日は、先生が地元に帰ってしまう日だ。夕方の新幹線に乗ると言っていたはずだ。  僕の全てを見抜いたおばちゃんは「当たり前だよ、何年君らを見てると思ってんだい」と豪快に笑った。  僕は友達の冷やかしを背中に受けながら、駅へと向かった。先生は駅の改札で待っていた。新幹線が出るまで、あと15分。 「先生」 「わざわざ来てくれてありがとう」  もう、ここで全て打ち明けるしかない。僕は逸る心臓を抑えるために深呼吸する。そして、声を出そうとしたとき、同じタイミングで先生が口を開いた。 「君、顔も綺麗だし性格もいいし、きっといい女性と出会えるよ」  それを聞いて、僕は何も言えなくなった。全身が凍り付いたみたいに何も。それでも僕を置いて時間は進む。 「大学生活楽しんで。元気でね」  先生は最後に笑顔を僕に向けて、改札を通った。 ―――  電車が駅のホームに止まる音が聞こえる。人の人生は電車のようなもので、人や場所、何かと出会う度にそこに止まり、時間が立てばそこを発車する。そして、去ってしまった電車は呼び戻せない。  君と目が合う。その目は今の夜の闇のように黒くて、綺麗だった。空は完全に暗くなり、あの月時雨の日と同じ形の月が出ていた。  君は意を決したように目を閉じる。僕は君の後頭部に手を回し、僕の顔をそっと近づける。 『どんな味がするんですか?』 『苦いよ。でもたまにこの苦さが欲しくなる時があるの』 『へー。どんな時ですか?』 『自分をひたすら責めたいとき』  僕はそのキスが、ただ苦くあれと願うばかりだった。 了
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