双曲線-3

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双曲線-3

「中野サーン。お客さん」  佑輔は、文系クラスの端っこの教室に向かい、戸口で中野を呼びだした。  美術部の中野は、その特異な風貌と変に老成したようなその人格で、同い年のクラスメートから親しみの込もった尊敬を集めていた。 「お。誰かと思えば、瀬川かよ。どした? 何か用か」  中野は相変わらず伸びた無精ヒゲをぼそりぼそりとこすりながら、のんびりした足取りでやってきた。教室ではトレードマークの汚れた白衣は着ておらず、よれよれの学ランをだらしなく肩に引っかけていた。  佑輔と中野は中高通して同じクラスになったことはない。が、共に目立たない方ではなく、互いに顔と名前とどんな奴かくらいまでは既知の間柄だった。 「ウチのクラスの奴が、おたくの美術部員から、一方的に絵を渡されたんだけど」 「別に俺のじゃないがね。それで」 「ひとにものを受け取ってもらおうってんなら、どこの誰かくらい名乗るのは当然だろう? それがひとこともなくただ押しつけていったって言うから。そんなの不審に思うだろう、普通。あんたなら、渡し主に心当たりがあるだろうと思って」  息巻いて押しかけてきた佑輔だが、自分が手渡された訳でなし、説明させられると理由としては弱い。 「それを聞いてどうするよ。『ありがとうございました』って、礼にでも行くか?」  佑輔は黙り込んだ。佑輔の勢いがやや弱まったのを見て取るや、中野はにやっと笑ってつけ加えた。 「そんなに谷口に近寄るヤツが気になるか」  ガタガターン、と大きな音が廊下に響き渡った。  佑輔に殴り飛ばされた中野が、教室の戸にぶち当たった音だった。 「中野サンっ」 「大丈夫っすか、中野サン」 「この野郎、中野サンに喧嘩売ろうってんなら、俺たちが相手になるぜ」  佑輔は教室から飛び出して来た数名に取り囲まれ、羽交い締めにされた。反撃の拳がヒットする寸前、中野が顎をさすりながら、振り上げられた拳と佑輔の間に入った。 「いいんだ」 「でも、中野サン、こいつ」 「いーんだって。俺がわざと挑発したんだから。そいつが悪いんじゃねえよ」  いいから放してやれ、と中野は命じた。「中野サンがそう言うんなら」と渋々彼らは退き下がった。 「さて」   中野は「こいつと話があるから」とクラスの連中を教室内に追い遣った。中野の言葉に従った彼らは、いつ何時でも飛び出せるようにギラギラした目で佑輔を監視している。中野は口を開いた。 「俺ぁさ、最近、美術室で寝てんだよ。ずっとあそこにいるとな、嫌でも目に入る。お前サンと谷口がいつもあそこで合流して一緒に帰るのがな」  佑輔は青くなった。何も言えずにいる佑輔の表情を面白そうに観察しながら中野は笑った。 「まあ、安心しろ。お前サンたちふたりのどちらかに特別の興味でもない限り、誰も気づきはしねえだろ」 「中野、お前……」  佑輔がまたいきり立ちそうになったので、中野は慌ててつけ加えた。 「おおっと。誤解すんなよ。俺は別に興味ないからな。お前サンにも、お前サンの大事なお姫サンにもな」  おお、青くなったり赤くなったり、忙しいことだ、と中野は嗤った。中野の言うとおり、佑輔は真っ赤になっていた。佑輔はここで話を半ばに立ち去る訳には行かず、黙ってその屈辱に耐えた。 「お前サンが勝手に頭に血ィ昇らせて走り回るのは結構だ。だがな」  中野は中等部では郁也と同じクラスだったこともあり、今でも郁也のことは友人として尊重していた。佑輔がどうなろうと知ったこっちゃないが、郁也を不利な立場に追い込むのだけは看過しないというスタンスだ。 「それがあいつにどういう影響を与えるか、ちったぁ考えるこったな」 (なるほどな)  中野はまたまばらに伸びた無精ヒゲを手の平でこすり、夏休みの前、学祭の準備期間を思い起こした。さんざん文句を言った割に、郁也は案外素直に毎日やってきた。  モデルの顔は窓の外を向き、あの時外では演劇部が作業をしていた。大人しく座って外を見ていたあいつの視線の先には誰がいたのか。あれから二ヶ月。ふん。 「あいつに絵を遣ったのが誰か、そりゃ俺は知ってる。でも、それはお前サンには教えねえ。この件はここで打ち止めにしとけ。いいな」  冷静になってみると、中野の言うことは確かにもっともだった。佑輔はうなだれた。  中野は黙って唇をかみ締めている佑輔の肩を軽く叩いた。 「泣かすなよ」  そう言って、中野は教室へ戻っていった。    その日、郁也はいつものように理科室へ向かっていた。教室の掃除当番だったので、いつもより少し遅くなった。  佑輔は今頃、学院の図書室だ。ひとりで原語の童話を読んでいる筈だった。英語の勉強には、参考書より英語漬けだ。  アメリカに住む父は、帰国する度郁也にいろいろな土産を持ってきたが、色取り取りのキレイな童話も数冊あった。  郁也が大事にしてきたそれらの中から、小学校高学年向けくらいのものを一冊、佑輔に貸した。もし本当に英語の点数を上げたいなら、この二年生の二学期を逃すべきでない。  郁也がぎこぎこ鳴る古い渡り廊下を専門棟へと歩いていくと、窓の外では美術部の中野が下を向いて何やら作業をしていた。側まで行ってようやく、中野の背丈に近い大きなキャンバスに刷毛で絵の具を塗りつけているところだと分かった。 「大作だね」  郁也は中野に声をかけた。絵をよく見ようと階段脇の戸を外へ出た。  赤を基調とした抽象的なパターンの中で、画面の左に偏って女の顔がこちらを見ていた。長い睫毛にくるくるしたウェーブ。半開きの唇にはひときわ赤い口紅。 「おお、谷口か。どうだ、受験準備に入る前の、最後の趣味の作品だ」 「ウォーホルに挑戦? 凄い自信だね」 「おおっ、すっとその名が出てくるとはね。理系にしとくのは勿体ないねえ。文系に来いよ」 「タイトルは?」 「『キャデラック? アスピリン? 幸せはどこに』さ」 「へえ」  現代絵画の巨匠の有名な作品にそのポートレートが使われた大女優、マリリン・モンローとひと目で分かるその女性が、笑うでもなく、睨むでもなく、ぽっかりと無表情でこちらを見ていた。恋愛と不安と、アルコールと薬に侵された美人女優。 「彼女が引き裂かれたのは、本当の自分と周囲の期待するマリリンとのギャップじゃなかったよ、きっと」 「そうか?」 「うん。心細い怯えた女のコと、周囲が期待しているマリリンはこうだろう、という彼女自身の想像とのギャップが、彼女を引き裂いたんだ。全て自分が創り出した幻の自分同士の争い、完全なる独り相撲だよ」  中野は片方の眉を上げた。 「どうしてそう思うんだ」 「だって、『周囲の期待する自分』って何? 結局自分は自分であって、『周囲』にはなれないじゃないか。そこにあるのは推測しかない。推測が正しいかどうか、検証の方法を持たない人間にとって、全ては自分の中に写った幻なんだ」  郁也は中野の大きな赤いキャンバスの前で目をしばたかせた。 「なるほどね」  中野は顎の無精ヒゲを撫でた。 「それで行くと、人間は絶対的なディスコミュニケーションを抱えていることになるな。ひととひととの触れ合いなんて、幻だ。全ては自分の中に写った幻に過ぎない、とこうな」  中野は芝居がかった仕草で声を張り上げた後、こうつけ加えた。 「まあ、人間には言語的コミュニケーションだけじゃなく、身体的なのもあるからな。言葉は簡単に嘘を吐けるが、身体の方はそうはいかない」  身体的コミュニケーションに言及したとき、一瞬郁也が頬を赤らめたのを中野は見逃さなかった。中野は廃材置き場から拾って来たトタン板に、絵の具を絞り出してナイフで混ぜた。 「ところでお前、最近猛犬飼ってるのか」  パレット代わりの板から目を離さず、中野は平板な口調で郁也に訊いた。 「……それ、どういうこと」  郁也は身構えた。中野が何を匂わせようとしているのか、センサーの出力を最大にして感じ取ろうとした。 「別に。言葉通りの意味だけど」  飽くまで中野はのんびりした口調を崩さない。 「なら、飼ってないよ」 「そうか」  それきり中野は黙って絵の具の色を調整し続けた。今日は風がないので、木の葉やゴミが飛んでこず、屋外で絵を描くのに適している。ブラスバンドの連中のキー合わせが聞こえてきた。 「……じゃあ、ボク、そろそろ行くよ」  郁也はこれ以上中野から何かを引き出すことを諦めた。郁也の足下で木の葉がかさかさと音を立てた。  立ち去っていく郁也の背に、中野は言った。 「猛犬飼うんなら、きちんと繋いでおけよ。危ないからな」  戸口で、郁也は中野を振り返った。 「ご忠告、ありがとう」  郁也はにやっと笑って見せた。怜悧な刃物のような冷たい笑み。 「そっちも、本気で絵をやるんなら、もっとオリジナリティを追求した方がいいんじゃない?」  ふふ、と笑って郁也は階段を上っていった。 (ふー。恐え、恐え。あいつ、よくこんなのを、何とかしようと思うよな)  中野はひとり肩をすくめた。  美術室の奥、美術準備室の方からパーンと何かが壊れる音がした。野太い悲鳴が続く。 「うわーっ。わー。中野サーン、助けて下さいよお」  中野はうんざりしてトタン板のパレットを置いた。折角今日は風もなく、心おきなく外で制作出来ると思ったのに。 「どうした、宮本」 「ここのブレーカーって、どこにあるんすかー」  中野はしょうがなく美術準備室へ向かった。 「宮本、さてはお前、七宝焼きながら電ノコ使ったな」 「はい。やっちゃいました」 「ここはな、配線古いんだから、そう一遍に何でもかんでも出来ないんだって。お前サンの大学みたいに、立派な設備じゃないんだから。こっから、上の理科室やら何やらにも行ってんだから」   中野は美術室から脚立を取ってきて、廊下の奥にある配電盤を開けた。 「ほい。ここがブレーカー」  ぱっと復電した灯りの下、準備室では二色の色ガラスが粉々に砕け散っていた。 「まさかこれ、生徒の制作物、じゃないよな」 「はい、違います。斉藤先生の私物のスタンド、だと思います」  産休中の美術教師が、落ち着きのない男子高校生のひしめく学院内に置いていったとすれば、何が起こっても自己責任ということで、問題なし。 「よかったな」 「はい。よかったっす」  中野はガラスを片づける宮本の横で、宮本が無闇に繋いだ電動工具やら電気釜やらをチェックした。 「これは……間違いなく落ちるぞ、ブレーカー。ったく、斉藤サンのいない間に何かあったら、俺が責められんだからな。頼むぜ」 「はい。僕も、何かあったら中野サンに聞くように、どの先生からも言われてます」  全く……。  美術と言っても絵画の方でなく、工芸品制作の授業を担当していた教師が休むに当たって、どういうつてだかは知らないが、美術系の大学院でぷらぷらしていたこの宮本が、教務助手ということでやってきていた。  中野は油絵科志望だが、この頼りない坊ちゃん先生のお世話を皆から押しつけられ、本来関係ない工芸用の電気器具の面倒も見ていた。  また、いざとなったら出来てしまうのも、中野の不幸と言えば言えた。それも教師・先輩を含む周囲のみんなの知るところだった。  屈託なくにこにこしている宮本の顔を、じろりと睨み中野は言った。 「……ところで、お前サン、何で俺に敬語使ってんだ」 「はあ、何ででしょうね。……人徳?」  宮本は小首を傾げた。  思わず中野は「語尾を上げるな、語尾を!」と宮本に蹴りを入れた。
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