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共鳴周波数-3
(ケータイって、便利)
郁也は初めて、携帯電話の利便性を享受していた。
これさえあれば、誰にも知られず、バス停へ向かうタイミングをしめし合わせることが出来る。毎日同じバスで不審がられると思えば、どちらかが近い時間の公共のバスに乗って、あとで合流することも出来る。
郁也の部活が長引いても佑輔はどこかで時間を潰すことが出来るし、佑輔が友人たちと話し込んでも郁也は安心して待っていられた。
(瀬川君は、男のコのボクでも、好きなのかな)
郁也はやはり素直に信じられなかった。注意深く佑輔の言動を確かめようと思った。
だが、実際に佑輔を前にするととても冷静ではいられない。佑輔からのメールが来れば、もう他のものは目に入らなくなった。
気持ちを抑えている時間の長いこと。授業が終わると、ふたりは急いで図書館へ向かった。ふたりが彼らを知らないひとの中で一緒にいられる場所は、そう多くない。図書館が閉まるまでの短い時間、郁也は幸せだった。
日に数度メールを交わして、放課後どこかで落ち合って。郁也も佑輔も、これまでの友人関係を崩すことなく生活した。だから彼らの周りの誰もが、そんなふたりを知らないままだ。
一度だけ、郁也がひやっとしたことがあった。
昼休み、松山が佑輔にこう言っているのが聞こえたのだ。
「おい、瀬川。お前彼女出来たんだって」
「ええ? 何のことだ」
「演劇部の一年が、花火大会でお前のこと見かけたってよ。すっげえ美少女と歩いてたって。仲良さそうに」
松山はそう言って佑輔を肘でつついた。
「ふーん、見間違いじゃねえの。大体花火大会って、夜だろ。『すっげえ美少女』ってもな。『枯れ尾花』ってこともあるぜ」
佑輔は「見間違い」で通した。松山は尚も「確かに見たって言ってたけどな」と食い下がったが、佑輔は涼しい顔でシラを切り通していた。
いたたまれなくなって郁也は急いで教室を出た。そのまま昼食のパンを買いに購買部へ向かう。後ろから佑輔が追ってきて郁也を呼んだ。
「谷口!」
「……瀬川君」
各学年各クラスの生徒が雑多に入り混じり、天井の高い中央ホールにはうわーんと彼らの声が充ちていた。校内で佑輔が郁也を呼び止めるのは、これが二度目だ。
「何」
「もしかして、気に障った、さっきの」
郁也は再び歩き出した。佑輔も続く。
「別に。気にしてないよ」
これだけひとの多いところなら、そう神経質になることもない。大体、悪いことをしてる訳じゃないんだ。佑輔と喋ったとて、誰憚ることがあろう。
(「悪いこと」)
郁也は背筋がぞくっとした。そういう時、自分の後ろめたい思いが痛くなる。
「なら、いいんだけど」
佑輔はほっと安堵の溜息を吐いた。郁也は佑輔の顔をちらっと見た。佑輔は大きく伸びをして、そのまま腕を頭の後ろで組んだ。
「ごめん。俺さ、皆に思いっきり自慢したくなった。『そうだよ。俺だよ。すっごい可愛いコと歩いてたよ。お前らの彼女が束になってかかっても、絶対敵わないほどのキレイなコだよ』って。へへ。でも」
彼らの脇を一年生が数人、何事か叫びながら駆けていった。まだまだこどもだ。佑輔はよっと身をかわして彼らを避けた。
「そんなことしたら、谷口迷惑するだろ。言えないよな。それに」
購買部は教室棟と専門棟の境目にある。開け放たれたどこかから、初秋の柔らかな風が棟内を吹き抜ける。
「皆に見せびらかして自慢したいけど。本当は、誰の目にも触れさせずに大事に仕舞っておきたいっていうか。ははは。矛盾ってこういうことを言うのかな」
郁也は思わず目を閉じた。こんな素直な言葉、間違っても自分は言えっこない。鬱屈した自分と違って、何と真っ直ぐであることか。郁也は嬉しくて、そして悲しかった。
「谷口……?」
郁也の沈黙に佑輔は心配そうな目を向けた。
郁也は買ったばかりのパンを胸に抱いて、努めて明るく佑輔を誘った。
「瀬川君、お弁当だよね。持って来て、一緒に食べない?」
専門棟の奥の古びた階段は、実は屋上に出られるようになっている。鍵は内側から開けられるので、自由に出入り可能だ。この事実を知るものは少ない。
この専門棟を部室として使っている生徒たちの幾らかが、辛うじて代々受け継がれた知識として知るのみだ。
屋上に出ても、機械室らしい出っ張りの陰にいれば、教室棟にいる教職員の目には入らない。そこは、真夏の照り返しと、雪に閉ざされる長い冬の期間を除けば、なかなかに快適な場所であった。
郁也はひとり鍵を開けて、特等席に陣取った。ここからは構内がよく見える。
ペリッと昼飯のパンを食い千切って、郁也はグラウンドを見下ろした。昼休みが始まってからまだそんなに経たないのに、もう走り回っている連中がいる。風が涼しい。
ぎいよ、と渋い音がして、背後で扉が開く。郁也は振り返らず、グラウンドを見つめたまま座っていた。
「こんなとこ、あったんだな。屋上があることすら知らなかったよ」
佑輔は郁也の隣に腰を下ろした。
「いいでしょう。この陰にいれば、先生たちにも見つからないんだ」
ふたりは昼食を摂りながら、しばらく無言で風に吹かれていた。
郊外の丘の上に建つこの学院からは、遠く市街も見渡せた。ごちゃごちゃした小さな街並み。その中に緑が楕円状に広がっていた。
「あれ、公園だね」
ふたりの通う図書館の隣接する公園だ。何度か一緒に歩いた公園。ふたりが二回、キスしたところ。
「ああ。そうだな」
佑輔はでかい弁当をあっと言う間に平らげた。
「相変わらず、早いね。食べるの」
郁也は笑った。
五時間目にはもう少しある。
郁也は制服のまま佑輔の肩に凭れてみた。
佑輔は嫌がらなかった。ふたりで花火を観た夜のように、佑輔は郁也の身体に腕を回した。佑輔の手がそっと郁也の背を撫でた。
郁也は理性を繋ぎ止めるのに必死だった。今にも佑輔にぎゅっと抱きついてしまいそうで恐かった。だが実際には、そんなこと恥ずかしくて郁也にはとても出来ない。
佑輔の手は熱くて、その指は郁也の肋骨や背骨の形を確かめるように動いた。
「あ」
郁也はがばと跳ね起きた。
「今何分」
慌てて時計を確かめる。限界だ。
「ここからだと、予鈴聞いてからじゃ間に合わないんだ。ボク、先に行くね」
佑輔は黙って手を上げた。
後から来る佑輔との時間差がたっぷり出来るように、郁也は所々走って教室へ戻った。
入り口付近に屯っていた数人が、目許にうっすら赤みの指した郁也を見ると、飛び上がってうやうやしく通路を開けた。
家に帰って、郁也は毎夜佑輔のことを想う。
自室で机に向かっていると、佑輔のことが恋しくなる。
郁也は勉強だけはよくした。ここで成績を落としてしまって、その原因を追究されることにでもなったら身の破滅だと思うからだ。
自分だけならまだいいが、佑輔に類が及ぶ危険性を考えると、今の成績を維持しなくてはまずい。
佑輔はどう思っているのか、或る程度その危機感は共有しているようで、比較的得意な理系科目以外にも、苦手教科である英語の克服に挑戦を始めた。
郁也の母、淳子は息子がいわゆる受験勉強に傾倒するのをあまり快く思っていないが、この際親の教育方針は脇へどけることにする。
以前ぼんやりと憧れていたときとは、その想いは明らかに違っていた。
今、郁也の恋焦がれる佑輔は、単なる想念ではなく、熱量、質感、重量感といった具体性を持つ一個の人間だった。しかも今や佑輔の身体がもたらした感触の記憶すら郁也にはあるのだ。
素直な笑顔。郁也に向けられた優しい眼差し。
それらを思い出すと、郁也の胸の奥で温かな蜜のようなものがとろりと溢れる。
佑輔の引き締まった身体。長い腕、脚。鎖骨の窪みが作る深い影。
そして熱い手。指。制服越しに知ったその感触。
それらが到来すると、呼び覚まされるのは肉体の欲望だ。
郁也は佑輔の手の、指の感触を丁寧に呼び起こす。
それを素肌に再現してみる。
そして佑輔の身体を想う。思うさま撫でさすり、頬ずりして、口づけたい。欲望の嵐が圧倒的な力をもって郁也の身体を吹き荒れる。郁也は暴風に吹き飛ばされ、高波にさらわれる小さな木切れだった。今ここにいない佑輔のその不在が、郁也を切なく狂わせる。
そして。
嵐が去ると、郁也は思い知らされるのだ。
自分が女のコでないことを。
(何が「女のコ」だ。こんな女のコがあるもんか)
郁也は情けなくて悲しくて、いつも涙が出そうになる。
(でも。でも、もしかしたら)
郁也は願うことをいつしか自分に許してしまっていた。
あんまり佑輔が優しいから。
学ランを着た郁也にまで。
そのことが郁也には怖ろしい。
普通の男のコである佑輔には、郁也の複雑さは受け容れ難いものである筈だ。
佑輔のあの優しさは、単にそのことに無自覚なためのものであったら。
その先を、郁也は努めて考えないようにした。
願わくば、時間がこのまま止まってしまうように。
自分の欲望が、これ以上成長することのないように。
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