慣性の法則-2

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慣性の法則-2

「やっぱり今年も一組の『お姫さま』は、谷口君で決まりだったね」  のっぽの水上が郁也の頭上で愉快そうにくすくすと笑った。郁也はむっとした。 「友達なら、少しは反対してくれてもいいじゃないか」 「それとこれとは話が別だろ。『戦いには勝つ』、その精神を忘れちゃ学院生の名折れだからな。勝つためには手段は選ばない。たとえ友人が多少の苦労をしょい込むことになったとしてもだ」  水上の反対側から力強くそう言ったのは、やはり同じクラスの横田だった。横田の背は郁也より小さいが、体重は郁也の何割か増しと思われる。郁也は溜息を吐いた。 「あーあ、嫌になっちゃうよな。クラスでは仮装。部活では……」 「お、今日からだったな。よろしく頼むよ」 「もう。学校、辞めちゃおうかな、ボク」  そう言って郁也はしょんぼりと肩を落とした。水上が後ろから励ますようにその肩を叩いた。  いつものように三人が理科室に着くと、部員たちに混じって異様な風体の男がどっかと座り込んでいた。美術部の中野だ。  中野は「ようやくおでましだな」とにやりと笑った。  背中に届こうという伸び放題の髪をくしゃっとひとつにまとめ、顎はまばらな無精ヒゲが伸び放題、汚れ除けのよれよれの白衣に油絵具をあちこちつけて、羽織って歩くその姿。  個性豊かな学院生の中でも異色の風貌をした中野は、二年生ながら美術部の名物男として知られていた。受験に数学も理科も、理系科目は一切必要としない筋金入りの文系だが、郁也とは中等部の頃、同じクラスだった縁がある。 「荷物置けよ。すぐ行くぞ」  中野に促され、郁也はまた唇をかんだ。 「じゃ、よろしくね、谷口君」  先輩も後輩もやけに愛想よく、競って郁也の手から鞄を取り上げ、中野の前へ郁也を押しやった。郁也は再び肩を落とし、深く息を吐いた。 「言っとくけど、脱がないからね」  ぎしぎし言う古い階段を降りながら、郁也は中野に念を押した。  中野は涼しい顔で顎ヒゲをこすった。  「安心しろ。何か用意してあったぞ、薄くてひらひらしたものが」 「ちょっと待てよ!」 「文句なら、交換条件を締結したそっちの部長に言うんだな」  郁也は踊り場で立ち止まった。 「帰る」  そう言うなり(きびす)を返す。  来月末に控えた学祭の準備のため、郁也は今日から数日間、美術部にモデルとして貸し出されることになっていた。それと引き換えに、美的センスに恵まれない天文部と物理部は、学院祭の展示物のデザインを美術部に請け負ってもらう約束なのだ。  メンバーと活動場所の重複で、融合した形になっているふたつの部は、学院祭への参加も共同で行っている。今年は準備の手間を省くことを優先して、ポスター発表のみとし、そのレイアウトすら他部に外注だ。  何かにつけ対抗戦になりがちで気の抜けないクラスの方と違って、極度に緩い部活動であった。郁也たちおっとりしたインドア理系チームには、このくらいが性に合う。  階段を駆け上がろうとする郁也の手首を、中野は慌てて掴まえた。 「冗談。冗談だよ。男のハダカなんか誰が見たいもんか。珍しくもない」  郁也は中野の手を振りほどき、冷たい目で中野を見据えた。 「お、いいね。その顔」  中野は指差した。なまじ整っているだけに、こういう表情をすると取りつくしまもない。そんな郁也に動じない中野の図太さである。 「ホントに冗談通じないんだからな。そのまんまでいいよ、その制服で。こっちだって高校生の作品展なんだからよ」  そう言って、中野はとすとすと先に階段を降りていく。郁也は中野に掴まれた手首をさすりながら、しぶしぶ中野の後に続いた。  外には、どこに仕舞ってあったやら、板切れや大きな木箱を担いで、そこら中に並べたりウロウロしたりしている連中が見えた。  (きっと、演劇部だ)  郁也は、制服の胸の辺りをそっと押さえた。   「あ、谷口君。お帰り」 「お疲れ」 「どうだった?」  理科室に戻ると幾分ホッとする。  口々に郁也をねぎらう天文部、物理部の面々に迎えられ、郁也は訊かれるままに美術部での様子を話した。  部屋の中央に座らされ、ポーズが決められるともう動けないこと。欠伸をこらえるのが骨なこと。肩が凝るし暑いので、学ランは脱いでいたこと。 「大体何でボクなんだ。展示の準備もあるのに。一年を出せばいいじゃない」  彼らは帰り支度を始めた。戸の鍵を回しながら水上が言った。 「何だかさ、三年の誰だかが、ファンなんだって谷口君の。それでご指名なんじゃないのかな」 「ええーっ」  部員たちはどっと沸く。郁也はその場で固まった。 「ねちこい目で、じいっと見てたひと、いなかったか」 「何かされそうになったら、大声出せ。な。二階に聞こえるから。一応止めに入ってやる」  友人たちは笑いながら口々に、引きつっている郁也をからかい、脅かした。  郁也たちは生徒玄関へは回らず、美術室の横の開き戸から外へ出た。これは禁止事項のひとつであり、本来この戸は施錠されている筈であった。  理科室からぎよぎよ鳴る鴬張りの渡り廊下を通って、教室棟一階の生徒玄関へ回り生徒通用門を経由すると、敷地外へ出るのに理科室からだとたっぷり五分。美術室横から出て垣根の隙間を抜ければ一分。答えは明らかだ。  更に、学院生の多くが利用する通学バスの停留所は、ここからの方が圧倒的に近いときている。用務員さんが下校後の見回りに来るまでの時間、ここが郁也たちの公式通路であった。   バスで駅前まで一括して運ばれた後は、彼らにもそれぞれの選択肢がある。郁也のように自宅近くまでのバスに乗り換える者。横田のように駅に自転車を停めている者。東栄学院には地元の名士の子弟が多く通う。学院前まで来られたのでは自由がないし少々体裁が悪いが、駅前までバスに乗り、友人たちと街を好きにうろついて、飽きたら迎えの車を呼ぶ、そんな行動のものもいるらしい。  外へ出ると、夕陽は既に傾いて、辺りを朱く染めていた。   さよなら。じゃあな。また明日。  気のおけない、楽しい仲間たちである。  郁也の今の生活を構成する、大きな要素であるには違いない。  郁也は知っていた。  嫌だ嫌だと騒ぐと、みんな面白がって故意とそうしようとすることを。  だから自分が、これ見よがしに大声を出したり、不貞腐れた態度を取ったりしているのだということを。  恥ずかしいから絶対嫌だと思っている自分と、憧れと期待にはち切れそうになっている自分とが、心の中で台風のようにせめぎあっていた、あの瞬間。  いつからか、郁也は制服の学ランを嫌い、キレイなもの、ドレスやリボンに憧れる自分に気づいていた。鏡をのぞくたび、母親似の卵型の顔がより可愛らしく見えるように、小首を傾げてみる癖がついた。    遡ると、随分早くから、そうした性向は芽を出していたように思う。  地元の公立の小学校に上がるとき、黒や青のランドセルが嫌で、頼んで焦茶のを買ってもらったものだ。本当はおしゃれなピンクが欲しかったのだが、子供心にもそれを言い出せず、ものすごく悩んでその色にしたのを憶えている。  異質なものに対する嗅覚に優れ、情け容赦ない子供たちの世界で、郁也の身体から漂い出す何とはない違和感が、暴かれ、標的にされるのは時間の問題だった。小学三、四年の頃には、それははっきりとしたいじめとなって、郁也を苛んだ。  そのときの担任の女性教師が、郁也の物柔らかな仕草に嫌悪を感じたらしく、職務的にはどうあれ、心情的にはいじめる子供たちに共感する風だったこともあり、郁也は進級して担任が代わるまで、半ば不登校の状態になったりもした。  やれ気持ち悪いの、オンナオトコの、変態のと、言いたい放題の悪ガキたちに心底嫌気がさして、郁也は母親に、中学からは地域の名門私立に通いたいと願い出た。  何事につけ大雑把な郁也の母は、それまで息子の成績にあまり注意を払ってこなかったが、本人の希望を受けて、郁也の中学受験に当惑しつつも協力した。塾に通うことを認め、仕事が早く終わった日には、郁也の勉強を見てくれもした。  母は郁也が学校でいじめられた原因について、深く追求しなかった。  海外勤務でほとんど帰らない郁也の父がもし家にずっといたら。彼ならもっと有効な対処が出来たかも知れない。一度だけ、済まなそうに母は郁也にそう漏らした。  郁也も詳しくは知らないが、細かいことに頓着しないその性質が活かされ、母は種苗メーカーの研究所で、責任ある立場にあるらしかった。部下を持って管理監督するのに向いてはいても、微妙な年頃に差しかかった子供たちの世界に介入するには、同じ研究者でも、ずっと第一線で細かい仕事に粘り強く向かい続ける、父のほうが有能であったろう。母はそう思っているらしかった。  だが、郁也は母の性格に感謝している。  家族にカミングアウトするなんて、余程の覚悟とタイミングが必要だ。  あのとき外でのいじめに加えて、母に細々聞かれていたら。自分の性質について、あの時点で言葉にして説明させられる羽目に陥っていたら。 (十かそこらで人生確定なんてね)   東栄学院中等部に入学してからは、郁也は自分の中の「女のコ」の部分をなるべく外に出さないよう気をつけた。幸い今のところ、それは上手くいっていると思う。  中等部の頃はよかった。制服は普通のブレザーで、女性が着るパンツスーツと同じだった。郁也にとって何の違和感もなかった。  後からつけ足された中等部と違って、歴史のある高等部では制服ひとつにも伝統があった。弊衣破帽(へいいはぼう)の時代から上着丈が短くなっただけの、濃紺で合わせ目に銀のラインが入った学ランだ。すらっと上背が高く見え、周辺校の女生徒たちには人気ナンバーワンの制服だった。  中学、高校と、少しづつ大人になっていく郁也。郁也の中の女のコはもう、自分がこんなコスプレみたいな格好をして、毎朝男のコの群れに入っていかなきゃならないのが、実はどうにも惨めで悲しい。  (学校、辞めようかな)  郁也は今週幾度目かの言葉を呟いた。  でも、夏休みまでは、やめちゃダメ。  一学期の終わりには、学祭があるんだもの。  白雪姫になって、キレイなドレスで踊るまでは、我慢しよう。  白雪姫になって、リンゴの毒で眠るボクを、王子さまが助けてくれる。  お芝居の部分は、せめてあまり恥ずかしくないのにして欲しいな。  待ち遠しいのが顔に出ないように、いつもよりも気をつけなくちゃ、と郁也は思う。
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