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共鳴周波数-4
「もう起きてきたの。早いのね」
食卓では、コーヒーを片手に淳子が新聞を読んでいた。早起きしてきた息子に極上の笑みを浮かべる。
「うん。何だか目が覚めちゃって」
郁也は幾分ぽーっとしながら、自分の分のコーヒーを注ぎ淳子の向かいに腰かけた。
谷口家の台所は東に向かって窓がある。朝はやっぱり朝日だわ、と淳子が選んだ家だった。
秋の柔らかな陽を受けて、眩しそうに目を細める郁也。その伸びかけた前髪と、伏せがちにした睫毛が、朝日を反射してきらきら光った。
(あら。こんなにキレイなコだったかしら)
淳子は我が息子ながら思わず心中独りごちた。
郁也は昨日届いた科学雑誌の最新号を、封を破ってぱらぱら捲った。郁也は淳子によく似た美形だったが、淳子が久しぶりによく見ると、顎の辺りは夫だった。
淳子は彼女が秘かに心待ちにする夫の動画メールを思い浮かべた。郁也がその視線に気づいて目を上げた。
「何?」
「……ううん。あなた何だか、キレイになったわねえ、こうして見ると」
「な、何を言うのさ。息子に向かって」
郁也は焦った。今朝は夢見が良くて、幸せな気持ちで目が覚めた。細部ははっきりしないが佑輔が出てきて、深い森のようなところでふわりと抱き締められる、そんな夢だった。
夢の中での幸福感が胸でぽわぽわ温かく、寝ていられなくって起き出したのだ。淳子の瞳はそんな郁也を見透かしているようで、郁也は落ち着かなくなった。
「あ。今号お父さん書いてるよ」
「え、どれどれ。……あらホント」
淳子は郁也の手許をのぞき込んだ。
「相変わらず、難しいこと考えてるのねえ」
他人事のようなその物言いに郁也は苦笑した。
「お母さんだって研究者でしょ。その言い方はないんじゃない」
「研究者『だった』のよ。それに昔から研究では弘人さんには敵わないわ」
「そうなの? お父さんは『本当は淳子さんの方が才能あった』って言ってたよ。それを、お父さんのために諦めたって」
弘人と淳子は同じ大学院の先輩後輩だった。美しくて明るい淳子は教授陣の受けもよく、将来を嘱望されていた。
ふたりは共に遺伝子組み換えによらない植物の品種改良の効率化を研究していたが、弘人はなかなか博士号を取得できず、かと言って就職先も決まらないまま、生活にも困るようになった。
そのとき既に妻となっていた淳子は、弘人が研究を続けられるようにと、自分が大学で手がけていた新技術の開発研究を諦め、民間の種苗メーカーへと就職した。
淳子の経済的な支えを得て細々と研究を続けたお蔭で、弘人は論文を評価してくれたアメリカの大学に職を得ることが出来た。
そう、郁也は父から聞かされていた。
「諦めた訳じゃないのよ。今の会社でも、内容は変わったけど、研究は続けられたし。でも、才能って結局『飽きずにやり続けられること』なのよ。ね。どちらが余計に才能あったか、分かるでしょ」
淳子はそう言って悪戯っぽくくすくす笑った。
「さあ。ご飯にしましょ。卵、焼くわね」
郁也にとって、父母のような生き方は理想だった。一緒には生活出来なくとも、尊敬し合い、助け合って生きている。そんな風に生きられたら最高だと思っていた。
だが、今、ひとを好きになることを知った郁也は、ひとつところに暮らせないこの夫婦を気の毒に感じ始めてもいた。母の明るさと美しさは、不在の父を恋し続けるところにその源泉があるのかも知れない。
どちらにせよ、自分には望めない幸福であり、不幸である。
郁也は淳子の用意した朝食を摂り、佑輔に逢うために学院へ向かった。
「お早う」
「……おはよ」
いつもと変わらない、さり気ない振りの朝の挨拶。
校内でふたりが交わす会話のほとんど全てが朝のうちに終了する。それはいいのだ。佑輔が郁也に向ける一瞬の微笑みには、郁也を一日幸せに保つ程の効力があるのだから。
だがその日は少し違っていた。
佑輔の笑みは強張って、いつもの優しい感じがなかった。郁也はちょっぴり不安になった。
(瀬川君、今日、どうしたのかな。嫌なことでもあったんだろうか。昨日ボク、何か気に障ることしたかしら)
郁也は窓の外を見た。家を出るときは爽やかな秋晴れだったのに、向こうの空がどんより暗い。雨になるのだろうか。秋の天気は変化が早い。
郁也は天気予報を見なかったことを悔やんだ。傘はない。
胸のポケットでケータイが震えた。佑輔からメールだ。
(今日、ヒマ? ウチに遊びに来ない? 誰もいないんだ)
ケータイを持つ郁也の手が震える。ケータイの振動はもう止まっているのに。
郁也に断る理由など、あろう筈もない。
ないが、しかし。
(ヒマだけど、いいの?)
(モチロン。じゃあ、放課後に)
本当に、いいの、瀬川君……。
郁也は放課後まで何も考えないように過ごした。いつもどおり、いつもどおりと念じながら、横田や水上に最新号の科学雑誌を見せたり、ゲームの攻略情報を交換したり、宿題の答えを確認し合ったりした。
期待さえしなければ傷つくこともない。単純に学校の友達の家に寄るだけ。よくあることだから。
普通のことだから。
何も、ないから。
それでも郁也は一時間に一度くらい、緊張のあまり泣き出しそうになって、困った。
そして、放課後、
郁也の予感は的中して、雨はざんざん降っていた。
こういうとき、生徒玄関からバス停が離れているのは厄介だ。
今日は部活に出ないと決めた郁也は、生徒玄関の庇の下で途方に暮れた。数分待ってみたがとても収まりそうにない。そうこうしているうちにバスが出てしまう。
終業直後の玄関は混雑していた。わあわあと賑やかにひとの傘を奪っていく者、何やら叫んで雨の中特攻を決める者、郁也と同じように立ち止まって様子を見る者。
二台ある通学バスは、この時間フル回転だ。多分そう待たずに乗れるだろう。公共のバスの通過もそろそろだった筈だ。
郁也が走り出ようとしたとき、喧騒の中で郁也の肩を叩く者があった。
「これ、使えよ」
郁也のクラスの数人が帰るところだったらしい。
「君らだって濡れるだろ。いいよ」
郁也が断ると、彼らはなおも言った。
「いいんだって。俺たちまだ持ってるから。バスまで。な」
無理やり郁也の手に傘を押しつけて、その中のふたりがひとつの傘で押し合い圧し合い、何ごとか叫びながら、結構楽しそうに雨の中へと出ていった。郁也へのお姫さま扱いごっこは、まだ続いているらしい。
彼らと同じバスに乗らないと返しそびれてしまう。郁也も貸してもらった傘を開いた。
校門を出ると、丁度一台停まっているのが見えた。
郁也が傘を返すと、級友たちは丁重に郁也にバスの最後部の席を譲り、自分たちはそれを取り巻くように座った。それを見た隣のクラスの連中が、面白くなさそうに「ふん」と鼻を鳴らした。
同じ理系クラスで、学校行事も模試の上位者数も郁也のクラスに勝てないので、日頃何かと郁也たちをライバル視している連中だった。それはそれで、ごっこ遊びの延長として楽しむくらいのクールさが学院生の身上なのだが、中には洒落の分からない者もいる。
車内の空気がどんよりと重く濁った。
そこへ、傘を畳みながら佑輔が乗り込んできた。郁也ははっとした。
もう先に出たと思っていた。郁也が帰るとき、教室にその姿はなかった。
佑輔は微妙な雰囲気の中、つかつかとやって来て、隣のクラスの連中のところで足を止めた。
「よお、坂本。今日は練習ないのか」
「瀬川ー。それは言いっこなしだって。俺だってたまには休みたいよ」
「ふーん。そんなんじゃ白鳳学園に勝てないぞ」
佑輔に「坂本」と声をかけられたのが、さっき鼻を鳴らした奴だ。ふたりの話し振りから察するに、バスケ部なのだろう。坂本と呼ばれた方は、高等部でもバスケを続けているらしく、今日はたまたまサボリのようだ。
佑輔はそのまま坂本を中心とする隣のクラスの連中に混じって腰かけた。車内の空気は、何事もなかったように再び流れ始めた。
通学バスが所定の場所に停まった。
バスを降りた郁也に、クラスの連中は濡れないところまで送ると言って傘を開こうとした。
郁也の頭を、肩を打つ雨が不意に止まった。
郁也の背中の後ろから、佑輔が自分の傘を差しかけていた。佑輔は郁也にだけ聞こえるように囁いた。
「行くぞ」
「あ、うん」
佑輔は有無を言わさず歩き出した。気圧されて黙っている彼らに、郁也は礼だけ言って佑輔に従った。
佑輔の家へは、駅前からは郁也の家とは反対方向行きのバスに乗る。途中、無人の野球場が雨に濡れていた。
郁也を座席に座らせて、佑輔はその傍らに無言で立っていた。つり革を握る佑輔の指が白んでいた。
郁也はふたり分の鞄を抱き締めて胸の鼓動を押さえようとしたが、効果はなかった。
雨は相変わらず窓ガラスを打ち続けている。
「次、だから」
そう佑輔に促され、郁也もバスを降りた。
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