共鳴周波数-5

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共鳴周波数-5

 佑輔は郁也に自分の傘を持たせ、背中を少し丸めてそこへ入った。佑輔の肩と鞄が雨に濡れる。  郁也は傘を佑輔の方へずらして掲げた。佑輔は傘を持つ郁也の手を、そっと元へ押し戻した。郁也が物言いたげに佑輔を見ると、それまで無言だった佑輔がようやく笑った。 「いいんだよ。もう、すぐだから」  ひとつ傘に並んで入ると、互いの顔はすぐ近くだ。それににこりと微笑まれ、郁也は気が遠くなりそうだった。  郁也は急に恥ずかしくなって、下を向いた。  きっと耳まで赤いと思う。だってそこまで熱いから。紺色の傘はそれを隠してくれるだろうか。 「『普通』って言葉の基準が変わるぜ。俺ん家見たら。普通の普通だから。学院生の普通じゃなく」  そう言って佑輔は笑った。 「おじゃましま……す」  郁也は遠慮しつつ佑輔が開いた戸をくぐった。 「これが世間一般の『普通』だ」  佑輔は何だか自慢そうに郁也を案内した。一間の戸を入ると上がり(かまち)の奥がすぐ居間で、台所の他はトイレ・風呂とあともうひと間あるだろうか。  郁也は二階に通された。急な階段を登るとドアが三つ。扉の作りから、ひとつは納戸と思われた。間取りで言うと、郁也の家とそう変わらない。  台所からオレンジジュースをコップに二つ運んできた佑輔にそう言うと、「造りがチャチだろ。古ーい建売り住宅だから」と佑輔は笑った。そんなものかな、と郁也は思った。  佑輔は郁也をベッドに座らせて、オレンジジュースの入ったコップを手渡した。自分は机の椅子の向きを変えて座る。 「何もないだろ。兄貴が家を出て隣の部屋が空いたんで、ごちゃごちゃしたものはみんなそっちへつっ込んだから。さっぱりし過ぎちゃって、殺風景だよな」  佑輔の部屋はシンプルで、飾りらしい飾りは何もなく、狭いながらもがらんとしていた。机と椅子に、ベッド、箪笥がひとつに、小さな本箱。部屋を見回す郁也に佑輔は笑った。 「お兄さん、いるんだよね」 「ああ。四つ上だから、今年二十一。谷口はひとりっ子だっけ」 「うん」  郁也の記憶では父が今の家にいたのは郁也が三つか四つのときまでだ。とても兄弟は増えそうにないと思うと、郁也はつい可笑しくなった。佑輔が郁也の笑った訳を尋ねた。郁也は思った通りのことを答えた。 「じゃあ、ずっと、お母さんとふたり暮らしだったんだ」 「うん。そうなるね」 「小さいときは、お母さんの帰りも遅かったんだろ」 「覚えててくれたんだ。ボクの言ったこと」 「そりゃ、ね」  雨の降る音がざあざあと響いていた。佑輔の言うように、郁也の家ではこんなに音はしないかも知れない。  佑輔はごくっとオレンジジュースを飲んだ。コップはすぐに空になった。 「淋しかったろうな」  そうだったろうか。郁也は今の生活と、小学生の頃の記憶を比べてみた。 「うーん。あんまり印象ないなあ。小学校の頃って、学校でいじめられてたこと以外、記憶薄くって」 「ええっ? どうして」  どうしていじめられるんだよ、そんな要素ないじゃないか、と佑輔は驚いた。 「そんなに意外?」 「うん。何で? きっかけになるような事件か何かあったのか」 「……言えない」  その理由は、郁也の口からはとても言えない。それが佑輔にならなおのことだ。自分の中の女のコが、他の子供たちに嫌悪されたからだなどと。 「そうだよな。言いたくないよな」  佑輔は、自分がその場にいさえしたら、絶対そんなことにしないのにと悔しそうに言った。 「……そんなこともあって、淋しそうなのかな」  佑輔はぽそっとつけ足した。 「そう? ボクって、そんな風に見えるの?」  郁也はコップを口にした。緊張のせいか、喉が渇く。 「……うん」  佑輔は、慎重に言葉を選びながら、つっかえつっかえこう言った。 「何ていうかさ。谷口って、こんなにキレイなのに、何か、淋しそうっていうか、悲しそうっていうかさ。例えば、クラスで何か盛り上がって、みんな一斉に笑うとするよな。そんなとき、みんなと一緒に笑いはするけど、気がつくと二、三歩後ろに下がってて、ふっと淋しそうにしてるんだよ、いっつも。大人っぽいって言えば大人っぽいんだけど……。それが妙に気になってた」  それはボク、性格暗いから、などと郁也は弁解じみた言葉を呟く。 「こんなに美形でさ、頭もよくて、家だって余裕ありそうじゃん。俺ん家みたいにギリギリって感じしないじゃない。なのに、何でこいつ、こんなに悲しそうな顔して笑うんだろうって。不思議で、気になって……。パーっと幸せそうに笑うことないのかな、って」  聞いていて、郁也は泣いてしまいそうだった。今日は全くどうかしている。  涙があふれないように、ジュースをまた一口飲んで心を落ち着かせようとした。 「幸せそうに笑ったら、本当は、どんなにキレイだろうって思って。こんなにキレイなのに、勿体ないって。もっともっと、可愛いだろうなって。……あれ、俺、何言ってんだろ」  郁也は残ったオレンジジュースを飲み干した。コップを持つ手が、心臓と同期して大きく震える。それが恥ずかしくって、止めようとしているのに止まらない。  佑輔が空になったコップを郁也の手から受け取って、机の上にふたつ並べた。  佑輔の指が触れていった部分が熱くて、郁也は自分の手を頬で冷やした。 「どうしたら、もっと可愛くなるかな、って。どうしたら(かげ)りなく笑ってくれるんだろうって、俺、そればっかり、考えて……」  佑輔は郁也の腰かけるベッドに膝を乗せ、そっと指で郁也の顎を支えた。 「…………」  唇が触れ合った。郁也の動悸はますます激しくなった。身体の深いところに必死に設けた掛け金が、がたがたと音を立てて動いている。 「……郁……」  唇が離れても、佑輔の指は郁也の頬から離れない。郁也の目の前に、佑輔の深い茶色の瞳がきらきらと濡れて光っていた。それはじんわり滲んでゆらゆら揺れた。 「ボクのこと、そんな風に呼んでくれるの……?」  郁也の頬に一筋温かいものが伝った。それは真珠のようにはらりと転がり、佑輔の指を湿らせた。  郁也は嬉しかった。誰かが自分をそんな風に呼んでくれる。そんなことがあるなんて。 「郁……」  佑輔の瞳の茶色、その美しさに郁也は目を離せなかった。それはゆっくりと近づいてきて、佑輔は郁也の唇に再び口づけた。  大人のキスだった。  佑輔の体重が郁也の肩にかかった。郁也が倒れ込んだ寝具は佑輔の匂いがして、佑輔に全身をすっぽり抱きすくめられたように感じた。  佑輔は少し勉強していたようだった。   ベッドの中で、佑輔はとても優しかった。 「ん……」  郁也が目を覚ますと、そこは見慣れた自分の部屋ではなかった。 (あ、そうか……)  郁也はシーツを素肌に直接感じて身を固くした。どうしよう、ボク、ボク……。 「目が覚めた?」  佑輔がシーツに肘をついて郁也を見つめていた。  郁也は慌てて寝具を首まで上げて身体を隠した。恥ずかしくって消えてしまいたい。毛布の隙間から、目だけ出して郁也は訊いた。 「何、してるの」 「ん。寝顔、見てた。可愛くて」  やだー、とばかりに郁也は佑輔を両手で向こうへ押しやった。佑輔は嬉しそうな笑い声を上げた。  辺りは既に薄暮が満ちて、しーんと静かだった。 「雨、止んだね」  郁也はベッドから寝具を一枚引き剥がして自分の身体を包み、窓辺に立った。窓の外では、陽が沈んだばかりの夕焼けに、雨露が紅く照り映えている。  郁也の全身には、生まれてこの方感じたことのない、深い安心感と充足感が満ちていた。このところ、佑輔のことを考えて夜も眠れない日が続いていたので、短い時間でも熟睡出来たことがまた郁也の気分を晴れやかにしていた。  飾り気のない佑輔の部屋は、仄暗い壁の隅々に、さっきのふたりの熱い吐息や、郁也の咽からこらえきれず漏れ出た声が淀んで残っているようで、郁也は恥ずかしくって幸せで、どうしていいか分からなかった。 「郁」  佑輔が呼んだ。その呼び方に、郁也の胸はきゅっと鳴った。郁也は寝具をずるずる引き摺って佑輔の側へ戻った。  佑輔は既にズボンをはいて、肩にはさっき脱いだカッターシャツを羽織っていた。佑輔は巻きつけた寝具ごと郁也の腰を抱き締めた。佑輔の肩からシャツが落ちた。 「……俺のこと、軽蔑する?」 (「軽蔑」? どうして「ボク」が) 「どうしてそう思うの」  郁也は両手で佑輔の顔を包み込んだ。佑輔は泣きそうな顔をして、思い詰めたように重ねて言った。 「軽蔑しない?」 「だから、どうして」  佑輔は俯いた。 「俺のこと、嫌いにならない?」  郁也は寄る辺ない幼子のように縋りつく佑輔を、心の底から愛おしく思った。佑輔の髪を何度も撫でて耳許に囁いた。 「ならないよ」  それはそのまま郁也が怖れていたことだ。郁也は佑輔のこめかみに頬を押し当て、佑輔の頭を撫で続けた。佑輔もされるがままに大人しく、郁也の胸に身体を預けていた。  ずっとそうしていたかった。  辺りはどんどん暗くなる。窓の外はもう藍に染まっていた。  そろそろ帰らなきゃ。 「泊まってけば」と佑輔は言った。郁也は笑ってシャツのボタンをはめた。  佑輔は郁也を家まで送っていくと言い張った。  郁也の住む町は佑輔の家の辺りほど拓けておらず、バスは早い時間で終わってしまう。ひとびとが家に帰る向きと逆の、街に出る向きは尚更だ。郁也はそう言って佑輔を説得した。  大体、佑輔の目にはともかく、一般のひとから見れば自分はただの男のコなのだし、危険はないのだ、と。  郁也がそういう言い方をしたとき、佑輔は悲しそうな顔をした。  それは、郁也の表情を映してのものだったろうか。  結局、佑輔の通学パスのある駅前まで一緒に行くということで佑輔は折れた。  ひと雨ごとに気温は下がる。雨の上がった後は空中の塵も一掃され、ひんやりと澄んだ秋の夜の香りをふたりは大きく吸い込んだ。  佑輔は私服のパーカーにジーンズ。郁也は制服の胸に、黒皮の指定の鞄を抱きかかえて、佑輔の半歩後に続いた。ひとが見たら、変な組み合わせと思うだろうな、と郁也は辺りを見回した。  佑輔は「鞄」とひとこと言って、郁也の前に右腕を突き出した。 「いいよ」 「いいから」  佑輔は郁也に差し出した手をぶんぶん振った。仕方なく郁也がその手に鞄を渡すと、佑輔はまた右手を差し出して振った。 「手」 「ええっ」  郁也は「ひとが見るよ」と後ずさった。 (無理無理。そんなこと、絶対、無理)  だが所詮、郁也は佑輔を拒めない。催促するように振られる手に、郁也はおそるおそる自分の左手を差し出した。佑輔の手がするりと郁也の手の中に滑り込む。 「誰もいないよ」  そう囁いて佑輔は指を郁也の指に絡めた。郁也は誰ともこんな風に密着させて手を繋いだことはなかった。その手は熱を帯びていた。この熱さを、今日郁也はこの身体に()けたのだ。 「佑輔、クン……」  郁也はそう、呼んでみた。少しして、佑輔は俯いて「うん」と答えた。  バス停には他にひとはいなかった。  佑輔は指を絡めた郁也の手に、きゅ、きゅと力をこめた。それはまるで(好き、だよ、郁)と言っているようだった。郁也も同じリズムで握り返した。(好き、だよ、佑輔、クン)という気持ちをこめて。  バスのヘッドライトが近づいて来た。佑輔はライトの影で郁也の指にキスをして、名残り惜しそうにその手を離した。  バスに乗っても、佑輔は郁也の鞄を離さなかった。ふたりがけの席に並んで腰かけ、見えない位置でまた手を繋いで、ふたりはずっと俯いていた。  このバスが駅に着いたら、ふたりのときは終りを告げる。また次の機会があることは彼らを安心させはしなかった。そんな気の遠くなる将来と引き換えに、この手を離すのは辛過ぎた。  十六歳という季節。  刹那、刹那はどれもきらめいて、明日はひどく遠く見える。  郁也の乗り換えのバスが来たとき、ふたりは引き裂かれる痛みに唇をかんだ。
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