共鳴周波数-6

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共鳴周波数-6

 家に着いて、ドアを開ける前に、郁也は大きく深呼吸した。 「ただいま」 「お帰りなさい。遅かったわね」  淳子は居間のソファから立ち上がって郁也を迎えた。 「うん。友達の家で勉強してた」  郁也は自分の言い回しに赤くなった。それを淳子に悟られまいと、手を洗う振りをして洗面所へ急いだ。 「今日はね、頂き物のお菓子があるのよ。ほら、あなたこれ好きでしょ」  地元にはない、或る有名な店のロールケーキ。小さな頃からそれは郁也の大好物だった。  淳子は、仕事上の来客の手土産だったが、郁也の喜ぶ顔が見たくて、こっそり持って帰ってきちゃった、と笑った。ちっちゃな郁也がこれを食べて大喜びしたのを、母は何年経っても忘れないのだ。  郁也は嬉しくって、涙が出た。 「……ありがと」  ありがとう、お母さん。ボクを産んでくれて。  ボクは今まで、生まれてきて、この身体で生まれてきて、よかったと思ったことは一度もなかった。でも。  ……佑輔クンが、宝物みたいに、大切に扱ってくれた。ボクの身体を。  ボクの大好きな大切な佑輔クンの、大切なものなら、ボクにとっても大切なもの。  ボクは今、初めて、ボクの身体を認められるよ。  生まれてきても、よかったって、初めて思う。  ありがとう。お母さん。  ごめんなさい。いい息子じゃなくって。 「あらあら。どうしたの、この子は。身体ばっかり大きくなって、いつまで経ってもお子さまなんだから」  そんなに食べたかったの? とどこか調子外れなことを言って、淳子は郁也の顔を両手で包み込み、涙の伝う頬にキスをした。  胸に抱き締めるには大き過ぎるが、ひっくとすすり上げるたびに上下する郁也の肩はまだまだ華奢だった。 「はいはい。先にお風呂入ってらっしゃい。ようく顔、洗うのよ。水とお湯と交互にね。血行がよくなって、明日目の周り腫れないで済むから」  郁也が落ち着いてきたのを見て、淳子は郁也の肩を撫でた。うん、うんと大きく頷き、郁也は風呂場へ向かった。  ばさっと学ランを脱ぐと、身体がすっと軽くなる。  一枚、一枚と脱いでいくうちに、郁也の胸には佑輔の部屋でのことが蘇る。 (ボク、佑輔クンと) (しちゃった……)  恥ずかしくて恥ずかしくて、郁也は誰も見ていないのに、タオルを抱き締めて真っ赤になった。  その気がなかった訳ではない。幾ら郁也でもそこまで厚かましいことは言わない。  だが、自分の身に、そんなことが起こる筈がないと、やはり絶望していたのは確かだった。  ベッドの上に押し倒されて、佑輔の匂いに全身を包まれたあの時。   恥ずかしいことに、郁也は物凄く「感じて」しまったのだ。  シャツの釦を外されたとき、腰のベルトに手をかけられたとき、恥ずかしくてもう止めて欲しいのに、郁也の咽からは勝手に甘い声が出た。  佑輔の指が郁也の身体に触れ、佑輔の唇が郁也の皮膚を這う。  これまで郁也にとって、皮膚とは恒常性維持の機能を持った、生物としての個の境界面でしかなかった。  郁也は知らなかった。  皮膚が大きなひとつの感覚器官だということを。 郁也は知らなかった。自分の皮膚の内側に、あんな感覚を受け取る装置が埋め込まれていたことを。その感覚を伝達するケーブルが、皮膚の奥の隅々に張り巡らされていたことを。  熱めのシャワーが、郁也の全身を洗い流してゆく。シャワーの湯が当たるところ、当たるところに、佑輔によってもたらされた感覚の記憶が蘇る。  身体のあちこちに、佑輔の唇の痕跡が残っていた。ここにも。あそこにも。ひとの目に触れることのない、脚のつけ根の毛際にそれを見つけたとき、郁也の胸がびくんと弾んだ。  そして、夢にまで見た佑輔の身体。それはしなやかで強靱で、バネのように(たわ)み弾んだ。始めこそおっかなびっくりだったが、自分が触れるたびに引き出される佑輔の反応に、郁也は夢中になった。  ひとと肌を触れ合わせることが、あんなに幸せなことだとは思わなかった。  (佑輔クン……)  郁也は目を閉じてちゃぽんと深く湯に身を沈めた。 「はい、じゃあこの解答の解説。えーと。……谷口君。どうぞ、前へ」  例によって、寺沢はより難しい方を郁也に当ててくる。 「はい」  無論生徒側に断る自由はない。 「……以上の理由で、この解答はこの点を除けば妥当です」  にこりともせず郁也は黒板の前で答えてみせた。 「じゃ、その解法が成り立つ条件は何ですか」  寺沢が質問した。 「え?」  思わぬつっ込みだ。郁也は驚いた。 「……先生、それボクが説明したら、先生の喋るとこなくなっちゃいますよ」 「お気遣い頂かなくても結構だから。はい」  寺沢は手の平をひらひらさせて郁也を促した。 (最近、難易度上げてきてるなあ、寺沢さん)  郁也は思ったが、教室の全員が同じことを思っていた。  高等部二年の二学期。  最近の寺沢の授業は、もう戦場だった。  寺沢が事前に告知しておいた問題を次々生徒に当ててゆき、別の生徒に解説させる。この緊迫した授業形式がずっと続いていた。弾丸はどこに飛ぶか分からない。ひとり、またひとりと(たお)れてゆく。  そんな中、特に難しい、答えにくい問題はいつも二、三人の決まった者に当てられた。郁也はその中のひとりだった。  数学の得意な者と言えば水上なのだが、彼の場合得意過ぎて、求められているのとは違う解法を援用したり、皆と違うことをひとり考え込んでしまったりと、およそ一斉授業に向かない才能なので、寺沢は彼を指名しない。  その分、彼は水上には別バージョンの課題を与えたりしている。世界に通用するかもしれない才能の成長を支援するのは、教師にとってまた大きな楽しみなのだろう。  一方、郁也はそうした天才クラスではなく、寺沢としては使い易いらしい。決まった二、三人の中でも、特にハードなところをピンポイントで当てられる日々だった。 「寺沢のヤツ、何で谷口にばっかりあんなエグイことやらせんだよ」  「本当、最近の寺沢さん、谷口を目の敵(かたき)にしてるよな」 「谷口君、何か彼に恨まれるような心当たりないかい?」  授業が終わると、郁也の周りでは、郁也を集中攻撃する寺沢の遣り方に憤りの声が上がった。横田もやってきて、 「あれかな。一学期の終わり頃、お前思いっ切り授業無視してボーっとしてたときあっただろ。あれ、コケにされたと思われてんじゃないの」 とふざけて言った。 「別に恨んではいないんじゃない? 部活では普通だし」  郁也は授業以外での寺沢の態度はいつもと変わりないと説明した。 「うわー。じゃ、愛されてんのね」と誰かが言った。 「ごめんな、俺たちじゃ弾除けにもならなくて」「不甲斐ない俺たちを許してくれ」などと野郎どもは口々に郁也に詫びた。  郁也は当てられて前に出ても、佑輔の方は絶対見ない。理性が飛ぶからだ。  他の誰が自分を見ていても屁とも思わないが、佑輔だけは別だ。佑輔に見られていると思った途端、郁也の脳裏には佑輔の視線に素肌を晒したあの瞬間が蘇る。  恥ずかしくなって声が震えて、きっと解答どころではなくなってしまう。  教壇の上からは生徒たちの表情がよく見えた。ぼんやり他のことを考えている者、出来なかった悔しさをバネに郁也の解答を吸収しようと意気込む者、淡々と授業の進行をメモする者。  だから、佑輔を見てしまったら、きっと普段近くで見ているときより強くその眼差しを感じてしまう。 「次の化学、理科室でーす。移動お願いしまーす」  教室の入り口で、日直が大声を張り上げた。専門棟ならすぐ行かないと遅れる。  皆がたがたと席を立つ。  郁也も急いで移動先に持っていくものを揃えていると、後ろから何かがぽふんと頭に当たった。見ると、佑輔の背中があった。通りすがりに佑輔が郁也の頭を撫でていったのだ。  郁也は慌てて下を向いた。  数秒、動かずに息を整えた。  今、自分がどんな顔をしているか。それは誰にも見られてはならない。  再び顔を上げたときには無表情に戻って、郁也は理科室へ向かった。      勉強しなきゃ。  今日のグラマー、佑輔クン当たってたし、あとできっと聞いてくるよね。  それまでに、準備しておこう。  いつしか郁也は昼休みにも教科書やノートを開くことが多くなった。横田も水上も、郁也の席の周囲の連中もそんな郁也に別段何のつっ込みも入れなかった。  そんなにガリ勉(この学院にはその言葉が現在まで伝わっている!)しなくとも郁也の成績は揺るがなかったが、同じ教室に佑輔がいるのに見ない振り、聞こえない振りをするのは郁也にとってはかなりの苦行で、勉強でもして意識を飛ばさないとやっていられない。  それは郁也流の気の紛らわし方だった。  次回までに予習せよ、と英語教師が言い渡していった範囲をひたすら英訳していると、郁也の胸ポケットでケータイが震えた。  教室内で同時に開いてることが重なると、目敏い誰かが気づくかも知れない。  郁也は少し間を置くべきかと迷ったが、我慢出来ずメールを開けた。  それにはこう書かれていた。 (郁。ふたりだけでまた会いたい。あんまりゆっくりできないかも知れないけど、今日ウチに来れるかな)  ふたりだけでまた会いたい。  ふたりだけで。 (佑輔クン……) (ボクも) (ボクも逢いたい) (ふたりだけで……)  佑輔の手の温もり。指の感触。  あの日、並んで歩きながら、絡めた指。  口づけ。熱い、甘い唇。舌。弾む吐息。  初めて経験した愉逸のとき。  郁也の脚は震えた。  席に着いたままじっとしているのが苦しい。郁也の頬は薔薇色に染まった。  恥ずかしさに、決して振り返れはしないけれども、佑輔がこのメールを開いた自分を、息を詰めて見守っているのを郁也は感じていた。眩暈がした。  恥ずかしくても、恐ろしくても、郁也はもう嘘は吐けない。自分の欲望を、ないことには出来ない。 (うん。行くよ)  饒舌な言葉は出て来なかった。佑輔の誘いへの(うべな)い。震える指でそれだけ打って、郁也は送信キーを押した。  それは佑輔の欲望を受け容れることこそが、自分の欲望であることを認める諾いであり、その欲望を求める乞いであった。  恥ずかしさも、恐ろしさも、もう郁也を押し(とど)めることは出来ない。  十六歳の郁也は、情熱の在り処を知って、その処し方をまだ知らない。ただ、翻弄されるだけだ。
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