共鳴周波数-7

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共鳴周波数-7

 静かな、秋の夕暮れ。  住宅街なのに、あまりひとの声がしない。車も通らない。  ひと昔前のベッドタウンなんてこんなもんだよ、と佑輔が言った。そこらを走り回る子供の声で賑やかだったのなんて、昔のことだ、と。この家も、佑輔の兄は巣立ち、佑輔も高校生、外で大声を張り上げるような年ではない。  どこの家も似たような時期に一家を構え、似たような年齢の子供たちが、似たようなタイミングで成長したのだろう。  幹線道路から数本離れているのも、静けさにとっては幸いしていた。  遠くで烏の声がする。  郁也はとろとろと眠りに落ちかけていた。 (どうしてこんなに、安心出来るんだろう)  この上なく、安らかな気持ち。幸せで、温かくて、意識がこのまま部屋の空気に溶けていきそうな感じがする。  佑輔の言った言葉。 (幸せそうに笑ったら、本当は、どんなにキレイだろう) (どうしたら翳りなく笑ってくれるんだろう)  佑輔クン、今ボク、幸せだよ。きっと、この世界の誰よりも。  今ボクの感じている幸せの、貴重さ、あり得なさは、奇跡みたいなものだもの。   ねえ、佑輔クン。ボク、今、キレイかな。  これまで佑輔クンの見たどのボクよりも、可愛く笑えているのかな。  これから佑輔クンが見るボクは、ずっと幸せに笑っていられるだろうか。  佑輔が郁也の平らな裸の胸に、甘えるように顔を(うず)めた。 「郁、いい匂いがする。香水?」  佑輔の髪が郁也の肌をくすぐった。郁也は咽の奥でくぐもった笑い声を上げた。 「うん。軽いのを少しだけ」  貰ったんだ、とつけ加えた郁也のひとことに、佑輔は血相を変えて跳ね起きた。 「誰に」  郁也は佑輔のその勢いに息を呑んだ。 「……イトコ。女のコだよ。もう随分前に」  真志穂に貰ったブルガリの「オー・ド・テ・ブラン」。女性用ながらユニセックスな感じの香りで郁也は気に入っていた。 「イトコって、結婚出来るんだよな」  深刻な顔をして考え込む佑輔。それを見て郁也は噴き出した。 「もう、何を言うかと思ったらあ」 「何だよ」 「ケッコンだなんて。随分突飛なことを言うんだね」 「……そんなに笑うなよ」  郁也はくるまっていた毛布を握り締めて笑った。 「まほちゃんは、そんなんじゃないよ。年も違うし」  それに、レズビアンじゃないもの。あれ? 何かヘン。  違うか。ヘンなのはボクだ。何だかおかしい。いつもならここで、真っ黒な気持ちのどん底に落ちるのに。そうだ、ボクは女のコじゃないんだって。  なのに今日はただおかしい。ヘンだなあ。  そう言えば、まほちゃんの恋愛の話って、聞かない。一度も聞いたことがない。レズビアンかどうかすら、郁也は知らなかった。  真志穂が恋する相手はどんな人間だろう、と郁也は笑いながら考えていた。  しばらく笑って、郁也はふと毛布の陰から笑わない目で佑輔を見た。 「そんなに気になるの、ボクのこと」  佑輔は郁也に見つめられて、どぎまぎと落ち着かない様子になり、俯いた。 「う。そりゃ、その、ええと」  しどろもどろになった佑輔は、照れ隠しに「何か飲み物を持ってくる」と階下へ降りて行った。  郁也は尚もくすくす笑った。何てカワイイひとだろう。 (好きだよ。佑輔クン)  そろそろ佑輔の母がパートから帰る頃だ。郁也は「うーん」と大きく伸びをし、それから服を着た。  制服をきちんと身につけ、教科書を拡げて、郁也が彼女の息子とここでしていたことは勉強の他ありません、という状態にしておかなければならない。  学ランのホックを留めて、郁也は佑輔の寝乱れたベッドを軽く整えた。つい数十分前のことが生々しく郁也に思い出された。  このベッドが乱れる前、この上で郁也は佑輔の震える指にこの留め金を外されたのだ。  いけない。そんなことを考えてたら、また始まる。郁也の呼吸は速くなる。  だめだ。しゃんとしなきゃ。  上掛けの皺をしゃっと伸ばして、郁也は部屋の窓を開けた。外のひんやりした空気に当たって、郁也は身体の火照りを冷ました。    佑輔の母は、長い黒髪をひとつに結い上げて、濃いグリーンのシックなスーツをかっちり着こなしたひとだった。  佑輔の話し振りからは、どうもがらっぱちな下町のおっ母さん、という感じがしていたので、郁也は少し意外だった。美人ではないが、こざっぱりとした印象だ。  彼女は息子の学友が来ていると聞くと、驚いて息子と同じ年の郁也に挨拶をした。 「まあまあ、むさ苦しいところですが、よくいらっしゃいましたねえ。この子が東栄学院の生徒さんを家に連れてくるなんて初めてですよ。不調法で至らない悪ガキですけれど、どうぞ、仲良くしてやって下さいね」  何もないですけど、と手に提げた買い物袋から何か取り出しそうとした。 「いいから母さん。俺たち勉強してるだけだから。時間勿体ないから、もう行くよ」  佑輔が彼女を押し留めて「行こう」と郁也を促した。何だか悪いような気がしたので、郁也は「こちらこそ勝手におじゃましまして」と丁寧に頭を下げてから、佑輔の後から階段を登った。 「ふう」  佑輔は手にしたコップに持ってきた麦茶を注いだ。佑輔は佑輔で、緊張するところがあるのかも知れない。  一般的に言って、母親の留守に引っ張り込んだ相手が女のコじゃなかった場合、バレたら親子絶縁ものだ。  コップ一杯の麦茶を一気に飲み干して、佑輔は深く息を吐いた。 「何か、イメージと違ってた。佑輔クンのお母さん」 「そうか。いろいろとうるさくてな。兄貴みたいに俺も早く家を出たいよ」  そんなに細々干渉しそうな感じはしなかったが、家族でないと分からないことはあるのだろう。親や教師の言うことを素直に聞く年頃でもないし、これくらいが健全なのかも、と郁也は思った。  少なくとも、十六にもなって、涙で濡れた頬を母親にキスしてもらう方が珍しいに違いない。 「佑輔クンって、お父さん似なの」 「んー。考えたこともないな。……そう言えば、ガキの頃はよく親父に似てるって言われたかな、親戚のおばさんたちに。目とか、鼻とか。郁は?」 「うん。ボクは母似。そっくりだって、よく言われる。自分でも似てると思うよ」  郁也は佑輔の注いでくれた麦茶に口をつけた。  一年半前までは、声も似ていた。父が厳しく誤った発音を注意したら、背後で郁也が泣きそうになっていた、ということがかつて何度もあったものだ。  ある日、郁也の咽から、母の澄んだ高めの声とは似ても似つかない汚い濁った音が出て、そのとき郁也は三日間泣いた。 「へええ。じゃ、きっとキレイなお母さんだろうなあ。いいなあ」  佑輔は本当に羨ましそうに天井を仰いだ。郁也は佑輔の発する「キレイ」という言葉には、つい鋭く反応してしまう。どきどきする胸を押さえて、郁也は軽口を叩いた。 「ふーんだ。幾ら憧れても、合コンには呼んだげないよ」 「馬鹿」  佑輔は郁也の頬をぴたぴたはたいた。 (ご迷惑にならないように、お夕食には帰るのよ)  幼い頃の母の躾が恨めしい。郁也は六時を過ぎると帰り支度をした。佑輔の母は見送ってくれたが、佑輔が郁也について出ると不思議そうにした。佑輔は「じゃ、こいつ、送ってくるから」と言いおいて玄関を出た。 「いいよ。ボクひとりで帰れるよ」  道も覚えたし、と郁也は遠慮した。佑輔は「いいんだ」と押し切った。 「お袋のヤツ、『いいお家の坊ちゃんって、見た目からしてつるっとしてキレイなんだね』とか言っちゃってさ。郁がキレイなのはお坊ちゃまだからじゃねえっつの。なあ」 「なあ」と言われても。郁也には何とも返事のしようがない。 「矢口なんて、正真正銘の超お坊ちゃまだけど、ぜんっぜんキレイなんかじゃないぜえ」 「ああ。でも矢口君、仮装大会のパレードではすごい人気だったねえ。フラッシュでボク、目が痛かったよ」  仮装大会で郁也の相手役の王子を演った矢口は、地元最大手の建設会社の御曹司で、プライベートでどんな遊び方をしているやら、他校生に大人気だった。  パレードでは「矢口くーん」と名指しで黄色い声が飛び交い、手に手にデジカメを持った女子高生がぞろぞろついてきた。中には中学生も混じっていたとの噂だった。  実際には「お姫さま」の郁也の方が男女共に人気は高かったが、郁也はそれを公式には認めていない。  佑輔は不機嫌そうに鼻を鳴らした。 「ふん。女コドモに人気でも、あんなのキレイでもなんともないだろ」 「キレイではなくてもさ。結構カッコいいんじゃない、彼」  佑輔は顔をしかめて舌を出した。郁也は心配になった。 「仲、悪いの、矢口君と」  だから最近、あまり彼と行動を共にしていないのだろうか。 「別に。同じだよ、いつもと」 「だって、あんまり一緒にいないんじゃない? 前と比べて」 「そりゃそうさ。郁がいるもの」  あんなムクつけき野郎どもといても、楽しくないだろ、とムスッとしたまま佑輔は言った。  街はまだ仄かに明るい。それでも佑輔は郁也の鞄だけは持ちたがった。  無造作に厚手の綿シャツを羽織った佑輔の、髪に寝癖が立っていた。これは母親ならヘンに思うかも、と郁也はひやっとした。  ひと目が気になって直すに直せず、郁也は飛び跳ねた髪のひと房を見ていた。黙り込んだ郁也を佑輔が振り返った。 「何」 「髪、立ってるよ」  郁也は指差した。  佑輔はどうでもよさそうに髪をぐしゃっと掻いた。  郁也は理解した。さっきの佑輔の不機嫌は、矢口と佑輔の関係じゃない。郁也が矢口を褒めたからだ。 (鈍いな、ボクって)  これまで自分が誰かに大切にされることなんてないという確信の下に生きてきたので、郁也の意識はそれが全ての前提になっている。これは佑輔も苦労することだ。  嫌われないように、気をつけなくっちゃ。  郁也は唇を引き結んだ。  快活で、学院内では友人も多い佑輔。  でも、自宅に呼んだのは初めてだと、お母さんは言っていた。初めて。このボクが。  この名誉は、模試の成績校内トップより誇らしい。
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