双曲線-1

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双曲線-1

「ふーん。このところ何にも言ってこないと思ったら。そんなことになってたんだね、この幸せ者」  真志穂はそう言って郁也を軽くこづいた。 「うふふ」  郁也はうっすら頬を染めた。  郁也は真志穂に借りたワンピースを、夏休み最後の夜、あの花火大会の夜に着ていたワンピースを返そうと、土曜日、久し振りにこの部屋を訪れていた。  真志穂の出した紅茶のカップを胸に微笑む郁也は、花のように愛らしかった。  郁也は真志穂に、二学期が始まってからもたびたび佑輔と一緒に過ごしていることを報告した。  だが、佑輔の部屋へ行ったことは言わずにおいた。  幾ら相手が真志穂でも、女のコ相手にそれは、ちょっと生々し過ぎるような気がしたからだ。  それに、郁也が死ぬような思いでようやく手に入れたそれらの僥倖を、彼女らは女のコであるというだけで、たやすく手に入れることが出来る。  相手が真志穂であったとしても、その一点、真志穂が分類上女のコであるということだけは、揺るがない事実だった。  本来、自分の一部は女のコだ、という確信。  それこそが、何の葛藤もなく内外共に女のコに生まれた人類の半分に対して、嫉妬と羨望の入り混じった複雑な気持ちを郁也に抱かせる。それは憎しみに近いものだ。  そんな暗い気持ちで女のコを見る自分が、たとえようもなく、下らなく、狭量で、惨めなものに郁也には思える。それが切なく悔しい。  佑輔の身体を、そして望むらくは心を、手に入れた今となっても、郁也は晴れやかな気持ちで「女のコ」たちを見ることは出来なかった。  寧ろ、それは新たな恐怖の青白い炎を、郁也の胸の内に焚きつける。  郁也の身体に情熱的に注がれる佑輔の欲望は、いつか彼の前に本物の女のコが現れたとき、きっとそのベクトルを変えてしまう。  この世の中に存在する女性型の肉体に、多分自分は敵わない。佑輔の優しさを信じても信じても、郁也は心のどこかで恐れた。  そうだ。郁也はそれが起こるのを恐れていた。  郁也は、今の佑輔の優しさと熱情に賭けるよりない。不安の大洋にひとりボートで漕ぎ出す心細さ。目指す楽園の小島。海図もなく郁也が追い求めるそれが、幻なのかどうかすら確かめられず。  ただ遠くから憧れていたときには無縁の心境だった。  幸運が嬉しければ、恐れもまた濃度を増す。  郁也は手にしたカップの中身をぐっと飲み干して、意識から恐怖を追い出そうとした。 「そう言えばさ、まほちゃん、仮装大会のとき、もしかして来てくれてた?」  夏休み中、郁也の気持ちは佑輔のことにかかりきりで、後で聞いてみようと思いつつそのことを忘れていた。 「あの消防署の角を曲がる辺りで、ちらっとまほちゃんらしい人影が見えたような気がしたんだけど」  真志穂は、笑いたいのに笑えないような、強張った表情になった。 (あれ、何かまずいこと聞いちゃったのかな、ボク)  郁也は真志穂を見かけた学祭の日からひと月経つまで一度も上らなかったこの話題を、今になって持ち出したことを後悔した。 「あ、ごめんごめん。ボクの勘違い。ちょっと似たひとを見たような気がしただけ」  はっきりとは見えなかったが、その人物は真志穂がケバいOL風に装ったときの姿に似ていた。髪を巻いて濃い目のメイクをし、大人っぽいジャケットを羽織っていた。  真志穂は誤魔化そうとする郁也のカップに、紅茶のお代わりを注いだ。 「そう。行ったの、あの日。そうだ。写真あげるね」  真志穂はパソコンを立ち上げた。  白雪姫の扮装で微笑む郁也が画面一杯に拡がった。 「ディズニー版だよね、基本。分かりやすいし、可愛いよ」  メイクもいいよね、と真志穂は目を細めた。  郁也はモニターをどきどきしながらのぞき込んだ。  思い出すと、今でも頬が熱くなる。この姿で、夕暮れの教室で佑輔と初めて約束をしたのだ。  教室の戸を開けたとき、振り返った佑輔の横顔。郁也の必死の強がりを、佑輔は笑って受け流して。  窓際で手招きする佑輔の許へ歩み寄ったとき、ドレスの裾がしゃりしゃり鳴って、まるで童話の中の姫と王子の結婚式のようだったっけ。  ヴァージンロードを王子の前へ進み出るお姫さまみたいな、怖いような、嬉しいようなそんな気持ち。   やっぱり、信じられない。こんな幸運は。  並んでディスプレイを眺める真志穂は、どこかもっと遠くを見ていた。 「まほちゃん……?」 「キレイになったね、いくちゃん。このときより、今の方がもっとキレイだよ」 「え……」 「恋は『女のコ』をキレイにするんだね」  どこかぼんやりとして呟く真志穂の言葉。  それを郁也は、ひとづき合いから遠ざかってしばらく経つ、真志穂の孤独によるものと解釈した。だったら、お洒落な真志穂のことだもの、自信を取り戻して外へ出れば。 「まほちゃんも、きっと、素敵なひとと出会うよ。春になったら、学校へ行くでしょう? そこで新しい世界が開けて、新しいひとの輪が広がるでしょ」  郁也はこの間思ったことを訊いてみた。 「まほちゃんって、どんなひとが好き? 好みのタイプって、どんなの?」  年下でもよかったら、場合によっては紹介出来るかも、とおどけてつけ加えた。  真志穂はディスプレイから目を離さず、郁也の顔のアップやロングショットを次々画面に大きく写していった。 「多分、しないと思う、レンアイは」 「ええっ、どうして」  郁也は驚いた。郁也の身の程知らずの恋を、こんなに親身に応援してくれている真志穂が、自分は恋愛しないとは。  郁也が目を丸くして二の句を継げずにいるうちに、真志穂はひととおり確認し終えた画像を、てきぱきと郁也の自宅パソコンのアドレスに送った。 「分からないよ、そりゃ、先のことはね。でも、しばらくは、ないな」 「ふーん。そうなんだ」  郁也は遠慮しつつも、また訊いた。 「今まで、好きになったひと、いる?」  真志穂は郁也が持って来たクッキーをひとかけつまんだ。それをすぐに口へは運ばず、表裏をひっくり返してしばらく眺めてから、静かに言った。 「いるよ」 「いつ? どんなひと?」  年上の従姉の人生経験に興味津々の体で郁也は身を乗り出した。  真志穂はクッキーをばりっと一気に口に放り込んだ。 「それは言えないよー。いくらいくちゃんにでも」 「そっか。そうだよね」  がっかりする郁也の鞄からメロディが流れ出した。郁也は「あ」と小さく叫ぶと、急いで鞄の中をのぞき込み、ケータイを取り出す。  郁也は一心にケータイを操作した。郁也のいいひとからの連絡なのだろう。真志穂は初々しく頬を染めて指を動かす郁也を見守った。  可愛らしいこの従弟。このコのためなら、真志穂はつい何でもして遣りたくなる。このコが悲しむことは、何とかして遠ざけて遣りたくなる。  多分、今郁也を夢中にさせているこの恋も、軽いうちに終わった方が、郁也を悲しませないためにはいいのだろう。そのために、真志穂が出来ることは何だろうか。  長い目で幾ら郁也のためになろうと、真志穂には郁也がその可愛い顔を曇らせるようなことは、やはり言えなかった。ひとの恋路に口を出すほど、野暮なことはないよなあ、と真志穂はぼんやり思った。  郁也には言わなかったが、真志穂はあの日、郁也の晴れ姿を見るために、そして写真に収めるために、意を決して街へ出たのだった。  一時はひと前に出ることが恐ろしかった真志穂だが、今は、ケバいギャル風、とか、大人っぽいキャリアウーマン風、とか、決めたテーマに沿って着るものとメイクを作り込めば、何とか外出出来るまでに回復していた。  ()のままの自分ではとてもひとの視線に耐えられないが、分厚い仮面をつければどうにかという状態だ。  その日、きっちりサファリジャケットと白のブーツカットパンツに身を固めて出かけた真志穂は、この世で最も会いたくない相手と、ばったり出会った。 「あーれ、谷口じゃん。まだ生きてたんだ。相変わらずブスね」  真っ直ぐな黒髪に、キツいアーモンドアイ。薄化粧したかつての級友は、年齢相応に美しかった。番茶も出花というが、元来の個性的な冷たい顔立ちが更に魅力的に輝いていた。 「そんな女装したところで、無駄に決まってんじゃん。無駄よ無駄」  吐き捨てるように、整った口許を歪めて元級友はなおも言った。連れ立って歩いていた彼女の友人たちが、何ごとが起こるかと舌舐めずりして待っていた。  真志穂はかつて、この世界で最も信頼し、最も価値あると信じていたひとを失った。  きっかけは些細なことだった。当時、真志穂の周りにいた少女たちの中に、他校の男子とつき合い始めた娘がいた。  何分女子校のことで、珍しさと羨ましさから、皆がその娘を囲んではしゃぎ騒いでいたときに、真志穂が不用意に口にしたその場に水を差すようなひとことで、その場にいた全員が敵に回ったのだった。  その中には、真志穂が親友と頼むそのひともいた。 「男、男って、何かヤだな。何だか、下品な感じ」 「何を上品ぶってんの、谷口。あんたみたいの、欲しくったって、彼氏なんか出来やしないんだから」  ブッサイクのくせに、生意気言ってんじゃないよ。  真志穂の耳には今でも彼女のその台詞がこびりついている。  お世辞にも顔立ちが整っているとは言い難い真志穂は、すらっとした肢体にストレートな長い黒髪、酷薄そうな赤い唇からいつも辛辣な言葉が飛び出す、大人びたその少女に魅せられ、憧れていた。  離れ気味の一重の目は常に皮肉な光をたたえ、いわゆる美人ではないが、真志穂にとっては、同年代の誰よりも美しい存在と映った。  彼女が次にはどんなことを言い出すか、わくわくして待った。彼女も、何人もいる仲よしグループの中でも、特に真志穂を選んで思いついたことをよく話した。多分真志穂が、回転の速い彼女のトークについていけたからだろう。  親友だ、と真志穂は思った。  真志穂は彼女が世間一般の少女たちと同じように、男、男と騒ぎ出すのが嫌だった。許せなかった。そんな凡庸な人間であって欲しくなかった。  男に夢中になる、つまらないただの女になって欲しくなかった。  その焦りが、真志穂にそんな挑戦的なことを言わせたのかも知れない。  その焦りは、真志穂の幼い嫉妬から発したものだということに、利発な彼女はぴんと気づいた。  真志穂はいわゆる「女のコ」っぽくなかった。言葉遣いも、立ち居振る舞いも、持ち物や服の好みも、メールの文面も、筆跡に至るまで。  彼女を中心としたその一団は、真志穂の一挙手一投足をあげつらった。徹底的に批判し、からかった。  真志穂の気持ちを悟った彼女は、率先して真志穂を笑いものにしたのだ。  そう、真志穂は確かに彼女に恋していた。  この世で最も会いたくない相手。  その傷はまだ癒えない。  真志穂は、郁也にだけはあんな思いをさせたくなかった。  真志穂の思いをよそに、郁也は嬉々として佑輔とメールを遣り取りしていた。 「ごめん、まほちゃん。ボク、行くよ」  ケータイをパチンと閉じて、郁也は真志穂に済まなそうに言った。申し訳なさそうなその顔は、しかし幸せそうに目を潤ませていた。  真志穂は彼らの打ち合わせの中身を聞かなかった。どこへ行くの、とも、何をするの、とも。真志穂の心のどこかで、苦いものが凝った。 「そう。行ってらっしゃい。楽しんでおいで」  真志穂はそう言って郁也を送り出した。窓からは郁也が弾む足取りで彼の許へと急ぐのが見えた。 (いくちゃん。幸せに。あんただけは幸せになって)  郁也が幸せにしていられれば。  それで真志穂は充分だった。  真志穂は遠く小さくなっていく郁也の背中に手を振った。
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