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双曲線-2
郁也は佑輔の家へ向かうバスに飛び乗った。
もう三度目。案内を乞わなくともひとりで行ける。
(郁、今何してる?)
(別に何も。今イトコの家に届け物に来てるだけ)
(今、ウチの親出かけるって言ってるんだけど、遊びに来れる?)
(うん。行けるよ。佑輔クンの家にまっすぐ向かうね。場所はもう覚えたから、大丈夫だよ)
(じゃ、待ってる)
待ってる。佑輔クンが、ボクのこと、待っててくれてる。
バスの中で、郁也は嬉しさに鞄の取っ手を握り締めた。
佑輔の家のブザーを鳴らすと、ものの数秒で戸が開いた。
「よ」
「こんにちは」
郁也が戸を閉めると、靴を脱ぐ間もなく佑輔に抱きすくめられた。佑輔は郁也の到着を余程待ち望んでいたらしい。もうこれ以上待てないとばかりに、郁也の唇に、頬に、頸に次々とキスをした。
郁也は敏感なところを狙われて、ぞくぞくっとと身体をわななかせた。頭の中で危険信号が点滅する。移動しなくては。ここから、動けなくなってしまう。
「待って佑輔クン。ここじゃダメだよ。ね、早く佑輔クンの部屋に行こ……」
くっつき合い、もつれながら階段を上がったふたりは、佑輔の部屋で、もどかしげに衣服を脱ぎ捨てた。郁也は明るい昼の光に裸体を晒すのが恥ずかしかったが、そんなことは構っていられなかった。
ベッドの上で、瞳の中に互いの欲望を確認し合い、どちらからともなく唇を重ねた。熱く舌を絡めるうちに、ふたりの咽から獣のような呻きが漏れた。郁也は朦朧としてきた。
終わった後、しばらくの間郁也は虚脱状態だった。
佑輔はそんな郁也が愛しくて仕方がないというように、ぐったりした郁也の肩を、腰を大切に大切に撫で続けた。
「佑輔クン……」
やや掠れた声で郁也は気怠げに言った。
「ん?」
「お父さんとお母さん、何時頃帰ってくるの」
「さあ。夜には戻って来るのかな。晩飯の話、何もしてなかったから」
じゃ、もう少しこうしていられるね。
佑輔は、いつまでだっていいさ、と笑った。
(もう。そういう訳にはいかないんじゃないの)
郁也は佑輔の父を見てみたいと思った。佑輔が似ていると言った父。この佑輔が歳を取ったら、どんな風になるのか。
「ふたり揃って出かけること、よくあるの」
「普段はあんまりないかな。今はほれ、兄貴が結婚するから。いろいろとな」
「結婚?」
佑輔は興味なさそうに、ああ、とも、ふん、ともつかない返事をした。
「ウチはこの通り金ないだろ。兄貴だって高卒で会社入って三年目だから、まだそんなに収入ないしな。やれ結婚式だの、新婚旅行だのって、嫁さんになる側は希望を言ってくるらしいんだけど、無理なものは無理だよな。それで、ウチの親と向こうの親とが入って、いろいろ協議してるみたいよ」
「ふーん。大変なんだね」
郁也には気の遠くなる程縁遠い話だった。ずっと憧れていた大好きなひとと、こうしただけでも奇跡なのに、結婚だなんて。
「結婚かあ。ボクなら、好きなひとと一緒に暮らせるだけで、幸せだと思うな。そんな儀礼的なものは、ただの手続きでしょ。お金がうんと余ってるなら別だけど、無理する程の意味は、ないと思うな」
ひとの家の事情に首をつっ込む気はなかったが、社会通念に抵触する危険性もなく、普通に家庭を築ける幸運を手にしていながら、更に多くを望む話を聞いて、郁也はついそう口にしてしまった。
佑輔は嬉しそうに郁也の頬と髪を揉みくちゃにした。
「兄貴も馬鹿だよな。郁みたいなコを選べばよかったのに」
多分佑輔は深い意味なく言ったのだろう。それは郁也には分かっていた。
(それでも、嬉しい……!)
「佑輔クン……」
佑輔を見上げる郁也の瞳はしっとり潤んでいた。
その目に見つめられて、佑輔の身体は再び熱を帯びた。
「郁……」
佑輔は郁也の頸にかみつきにかかった。
「あ……あ」
(だめ。ずるいよ、佑輔クン。ボクばっかり)
郁也は佑輔の腕をするりと抜け出し、逆に佑輔の肩を押さえ、仰向けにさせた。佑輔の濃い茶色の瞳がきらきら光るのをじっくりと堪能してから、郁也はうっとりと佑輔の引き締まった身体に唇を寄せた。
結婚かあ。
ボクなら、きっと、そんなこと……。
「あら、遅かったのね」
居間では母、淳子が新しく買ったらしい料理本を捲っていた。
「あ、うん。まほちゃんとこ行ったあと、本屋何軒か歩いたから」
「また参考書?」
郁也が本屋に行ったと聞くと淳子は眉をひそめた。
「そんなんじゃない、けど」
けど。その先は言えない。勿論、本屋などへは行っていない。郁也の口許には思わず笑みがこぼれた。佑輔と過ごした数時間が、今、郁也の身体と心に満ちていた。
目許をふっと赤くした郁也を見て、淳子は揶揄うように首を捻った。
「ねえ、郁也。あなた最近随分明るいのね。何かいいことあったの?」
「え」
母の勘恐るべし。郁也はどきっとした。淳子は両手で郁也の頬をびよーんと引っ張ってこう言った。
「あなたくらいの年頃なら、何かあっても両親に報告なんてしないでしょうけど。でも、覚えておいてね。あたしたちは、いつでもあなたの力になりたいと思っているし、あなたの幸せをあなた以上に願っているのよ」
仕上げに郁也の額をぺちぺちとはたいて、淳子は食事の支度に台所に立った。
「痛いよ、お母さん」
郁也は文句を言い、引っ張られた頬をさすった。そうして締まりなく弛んでしまう表情を隠した。
ちょっとくらい。
ちょっとくらい、いいじゃないか。
ボクが幸せに酔っていても、内緒で好きなひとと逢っていても。
こんなこと、夢にも願ってなかったし。
永遠に続く夢なんて、ないんだし。
このくらい、ボクにだって、許されていいよね。
いいよね、佑輔クン。
秋は速やかにその深さを増していく。
郁也が佑輔との逢瀬を心待ちにする日々の中で、街の緑は次第にその色を変え、あるものは褪せてくすんだ灰緑に、あるものはひと足先に山吹色にと、その衣装を競っていた。
晴れた昼間は暖かいが、朝晩と雨降る日は、肌を刺すように空気が冷える。
痩せているせいか寒さがこたえる郁也は、毎年ひとより早く冬支度をする。
今年も真志穂が見立てた明るい茶色のチェックのマフラーをして、郁也は冷たい手をこすりながら学院へやってくる。
いつもの時間に生徒玄関をくぐった郁也は、二年の教室へ向かう階段の下で呼び止められた。声の主は階段の蔭から郁也にそっと手を振った。
郁也はそのひとの顔に微かに見覚えがあった。どこで会ったひとだったか。郁也は意識を集中させてここしばらくの記憶を浚った。
思い出した。美術部でモデルをしたとき、一、二度興味なさげに郁也をスケッチしたきりで、後は部屋の隅で他のものを描いていた三年生だ。
教室棟に階段は幾つかあるが、郁也の教室へ向かうのに一番近いここは階段の奥が袋小路になっていて、段の蔭に入ってしまえば通る者からは死角になる。ひと目につきたくない話をするには絶好の場所である。
郁也を呼び止めたそのひとは、かと言って蔭に身を潜めるでもなく、往来から外れるためだけにそこを選んだかのようだった。
「何、ですか」
郁也が近づくと、彼は筒状のものを郁也の前に突き出した。
「これ。受け取ってだけ、くれればいいんだ」
郁也の顔をろくに見もせず、ぶっきらぼうにそれを押しつけると、そのひとは階段を駆け上がっていった。
しっかりした厚手の画用紙が、丸められ水色のリボンで留められている。
郁也は呆気に取られて、しばらく手に残るその筒を眺めていた。
「どうした、郁。そんなところで」
佑輔が階段の手摺りから身を乗り出していた。いつもの時間に郁也が教室に現れないので、佑輔は心配になって探しにきたようだった。
「あ、佑輔クン。お早う」
「うん。何だそれ」
「ああ、今ね……」
郁也はたった今手渡されたそれを、訝しく思いながら開いて見た。
リボンを解き、内側にかけられた薄紙を捲ると、柔らかな色彩で描かれた人物の横顔が現れた。
「これ……」
郁也は息を呑んだ。
そこに現れたのは、夢見るように微笑む郁也だった。絵の中の郁也は実物よりも柔和に見える。描かれる者よりも描いた者の心の温かさが感じられる絵だった。
水上の言っていたことが思い出される。
(三年の誰だかが、ファンなんだって谷口君の)
それがもしかして、さっきのあのひとなのかも知れない。
(受け取ってだけ、くれればいいんだ)
さっきのひとの残した言葉。そのひとは、郁也に何も期待せず、ただこの絵が郁也の手に渡ることだけを望んで仕上げたのだ。この優しい色遣いで。
なら。そのひとの心に応えるため、そのひとが何組の誰で、などと無用の詮索はせずに黙って受け取ろう。郁也はそう思った。
ひとがひとを好きになる、その心情の発露の形は、ひとそれぞれだ。どんな形を求めるかも。共通するのは、そのひとを想うときの切なさだけ。郁也はその切なさを知っているのだから。
郁也がその絵を大事そうに抱えている横で、佑輔がぼそりと「いい絵だな」と呟いた。
その声はあまりに静かで、郁也は不気味に思って佑輔を見た。
佑輔は素早く階段の蔭に郁也の肩を押しつけ、乱暴に郁也の唇を吸った。
「んん……」と郁也の咽が鳴り、身体を離そうとして佑輔の胸を押す郁也の腕が、筒を持ったままやがて力なく佑輔の背中に回った。
「佑輔クン……」
唇を離したその瞬間、佑輔は素早く身を翻した。荒々しく階段を駆け上る足音。
見えなくなった佑輔の背中を、郁也は心の中で抱き締めた。
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