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慣性の法則-4
外はいい天気!
こんな窮屈な部屋で、十人以上のむさい男のコに囲まれて、じっと座ってる場合じゃないよなあ。郁也はぐうっと背筋を伸ばしたいのを我慢した。
それぞれのイーゼルの内側で、いろんなものがこすれる音がひっきりなしに続く。使っている道具は皆が同じではないようだ。
郁也は今日もモデルのご奉公中だった。
だがそれも今日を含めてあと数回だ。
やれやれ、と郁也は思った。少なくとも、そう思っているような顔をした。
結局水上の言っていた郁也のファンの話も、ガセだったのか、誰のことかは分からなかった。初めは光の加減とかで、あっち向けこっち向け言われたが、顔を窓に向けたポーズで落ち着いてくれたのは、郁也にとって何よりだった。
窓の外では演劇部が、学院指定の青いジャージにTシャツ姿で、大小様々な書割やセットの準備に汗を流している。のこぎりでベニヤを切る音、釘を打つ音。時折上級生の怒声が飛ぶ。不慣れな者が失敗するのだろうか。
無理もない。中高一貫の名門私立のこと、入学してくる者の多くは、それまで大工道具など触ったこともないだろう。当然郁也もそのクチだ。
がしゃがしゃーん、と派手な音がして、続いてまたしても怒声が響いた。何か大きな物を落としたか何かして、オシャカにしてしまったらしかった。必死に謝っているらしい下級生の頭を、上級生がポカーンと叩いた。
もうやめだやめだ。カントクー、ここらで休憩入れましょうや。仕切り直しましょう。そうだそうだ。そんな演劇部員たちのかけ合いが聞こえてきた。どうやら休憩することにしたらしい。郁也は喉の奥で笑った。
「こら、モデル、笑わない」
表情を変化させないように気をつけた積りだったが、中野に目敏く見つけられてしまった。
改めて無表情を作り直し、郁也は再び外に目を凝らした。
休憩になった演劇部員たちは、涼を求めてそれぞれ木陰に散った。こちら美術室側へやってくる者もいた。
彼らが大きく移動するたびに、郁也はつい、その中のひとりを目で追ってしまう。
五、六人の即席大工の中でも、ひときわすらっと姿勢良く、シャープに動く長い手脚。そこだけワット数の違う照明が当たってでもいるようだ。それほど郁也には輝いて見えた。
そのひとが重そうな何かを担いだり、呼ばれて振り返ったり、首に掛けたタオルで額の汗を拭ったりするたび、郁也ははっとした。
なんで演劇部なんだろう。およそ似つかわしくない。芝居に興味あるのかな。
郁也はそれが誰だか知っていた。同じクラスの瀬川佑輔だ。白雪姫をキスで救う王子、矢口と仲がいいひとりだった。
瀬川の席は郁也の隣の列の三つ後ろで、教室では普段郁也からその姿は見えない。残念なことだが、郁也はそれでよかったと思う。視界に入っていれば、つい目が行ってしまう。毎日のことなら、どんなに注意していても、いずれ勘のいい誰かが気づいてしまうかも知れない。
郁也が瀬川裕輔を好きだということに。そして、郁也の中身が女性寄りだということに。
公立小の悪ガキたちほど性質の悪いいじめはしないだろうが、意地悪な興味と軽蔑の目で見られるくらいは必至だろう。そうなることを郁也は怖れていた。
だから郁也が、周囲を警戒しながらもある程度佑輔を見ていられるのは、体育の時間くらいのものなのだ。それが、こうしてモデルをしている間だけは、誰にも不審に思われることなく、存分に彼を見つめていられる。そして、本人にそうと知られる心配もない。
郁也は、美術部でのこの時間を神様に感謝した。
だからこそ、この扱いに一層不満を表明しなければならない。
この幸運を誰にも気づかれないために。
隠している不穏な想いを、封印しておくために。
郁也が瀬川佑輔の存在を強く意識するようになったのは、今年五月の球技大会だった。
郁也たちの通う東栄学院は、ミッション系の中高一貫校である。地の塩となるべき高潔な志を持った人材を育成するため、勉学のみならず身体、特に手足を使って苦難を乗り越える経験をということで、年中何かしらの行事が設定されている。
春の球技大会に始まり学院祭、合唱コンクール、宿泊研修、クリスマスコンサート、等々、等々。
「ウケるが勝ち」の校風で、そうした行事はクラス対抗の様相を帯びる。例えば郁也の二年一組は理系クラスだが、同じく理系の隣の二組とは火花を飛ばし合う宿命のライバル関係だ。
前回の行事で負けた方は雪辱を果たすのに必死になるし、勝った方は何かにつけ「勝った」意識をアピールして張り合う。もちろん本気ではなく遊びなのだが、遊びだからこその真剣さで、彼ら学院生は年中盛り上がってばかりいる。
風薫る、五月。まずは球技大会だ。
あり余る若い身体のエネルギーをここらで少し消耗させようか、という学校側の作意を感じなくもない。夏を前に、圧を減らしておこうとでもいうのだろう。
郁也はスポーツには興味がなかった。身体を動かすことそのものは嫌いではないが、同年代には体格負けしてしまうのと、自らの身体に対する違和感からか、自分の身体能力を使い切るのが何となく怖いと感じてしまう。
それが自分の意思により、または欲望によりどこまでの動きをするのか。精神に常に否定されている肉体が、都合のよいときだけ精神に味方してくれるとは思えないのだ。
そのため、もっと動かせる、もっと耐えられるのが分かっていても、そのかなり手前でブレーキをかけてしまう。
従姉の真志穂はそんな郁也を、「いくちゃんはおっとりしてるから」と評する。
東栄学院の球技大会は、各員ソフトボール、バスケットボール、バレーボール、卓球の四種目に分かれて、学年ごとにクラスの順位を決める。最後は、各学年の一位同士が戦って全校の勝者を決するが、これはエキシビジョン。大事なのは学年順位と、ライバルクラスとの勝ち負けだった。
全員必ず参加。その際、現在所属の部活動と重複する種目は避けること。それが規則だ。
郁也は水上たちと卓球に出場した。水上は身長だけはあるのだからバスケなど向いていそうだが、いかんせん運動能力に大いに問題がある。「数学」と「プログラミング」が競技種目にあったら、とよく言う。実際幾つかの学生タイトルを有しており、郁也たちの間でも一目置かれている凄い奴だ。
水上以外も体育に関しては五十歩百歩で、辛うじて戦力と言えるのは、中等部で卓球部の幽霊部員だった一名と、スタミナに乏しい郁也だけ。
幸い卓球というややマイナーな響きのする種目には、各クラス似たり寄ったりの選手が集まるようで、そんな郁也たちも緒戦は突破した。しかし善戦やむなく二回戦、本気の経験者がばっちり二名入った文系チームに敗退した。
一回戦負けという不名誉も回避し、まあまあ最低限の貢献はしたかな、という気分で、勝ち残っている種目の応援に詰めていたときのことだった。
例外はあるが、学校行事の中心となるのは、ちょっとやんちゃで活動的な連中だ。級長や生徒会役員といった優等生タイプは、リーダーシップや企画力で彼らに敵わない。
後に仮装大会で郁也の相手役となる矢口を含む、五人前後が目立ってバスケやバレーで活躍していた。このときバスケットは決勝戦に臨んでいた。
召集されたので一応顔は出したが、郁也たちは数人でだらだらと無関係なことを喋っていた。内心(早く終わんないかな)と郁也は試合をろくすっぽ見てもいなかった。
話の流れで誰かが持ち出したセキュリティソフトの問題点に、郁也が大きく頷いたその瞬間。
突然、目の前をボンっと茶色い風が走った。
それを追って駆け込んでくる影。
よそ見していた郁也に向かって、コートを外れたボールが飛んできたのだ。
ボールに追いつけず勢い余った選手は、反射的に身を縮こめた郁也の頭上の壁に、ダン、と手をついてようやく停止した。
「ごめんごめん。大丈夫だった?」
コートに戻る瞬間、彼は郁也を覗き込んでいった。
郁也の横で水上が、「びっくりしたねえ」と間延びした声で言った。
思わぬことに目をパチクリさせて、郁也は試合に注意を向けた。
観ているうちに分かってきた。さっきの彼の動きがいい。
郁也に危うくぶつかりそうになった彼は、背丈で頭半分出ているせいか、的確にチームメイトに指示を出し、自分もまたよく走る。
しなやかな長い手脚が美しい弧を描いて、実になめらかに移動する。敏捷な野生獣を連想させるその動き。
郁也の視線は彼に吸い寄せられた。
やがて彼がシュートを決めた。勁い頚から続く肩。浮き上がるシャツの裾から一瞬のぞく、引き締まった白い脇腹。
こんなに美しい生き物を、郁也はそれまで見たことがなかった。
(カッコいい……)
ゼッケンは郁也たちのクラスの色。
それが瀬川佑輔だった。
自分たちのクラスが勝って試合が終わるまで、郁也は佑輔の姿を追い続け
た。
何故かそこだけくっきり見えた。
郁也は息を詰め、佑輔の動きだけを見た。
終了の笛が鳴り、選手が次々とコートから出ていく。抛り投げられたタオルを空中で掴み、仲間と何事か喋りながら、笑顔で体育館を後にする佑輔。
少し前まで、そんな奴いたかな、そんな程度だった。
郁也はそのひとの後ろ姿を見送っていた。
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