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慣性の法則-5
学内のそこかしこから、歓声や悲鳴、釘を打つ音から果てはモーター音まで、雑多な音がうおーんと響いていた。
十代半ばの生徒たちの放つエネルギーが校舎全体に充満し、校舎そのものが奇妙な生命を与えられたひとつの生き物と化したようだ。
郁也はひとり、理科室の窓から空を眺めていた。夕暮れどきにはまだ早い初夏の午後三時。首筋を撫でてゆく風が涼しい。
頼まれていたモデルの契約も終了し、学祭の準備は各部・各クラスとも佳境に入った。天文部と物理部の他のメンバーは、展示に使う資材の調達のため、実行委との攻防戦に挑んでいた。
クラスの方でも数日前、郁也は演出班から進行表と、通行人へのアピール用、会場ステージ用の二種類の寸劇の台本を渡された。
王子役の矢口と並ばされ、背丈を比べられたり、服のサイズを確認されたりしたので、今頃は衣装班がカツラだの貸衣装だのの手配に駆けずり回っていることだろう。
オリジナルかディズニー版かで演出班と衣装班が熱く議論するのを尻目に、憮然とした表情の下、郁也の胸がどんなに甘く弾んでいたか誰も知らない。それだけは、守り通すべき秘密の砦だ。
「あーあ。学校、辞めちゃおうかな」
つい郁也は声に出していた。
この下の美術室にはいる用事がなくなった。演劇部の臨時大工を楽しく眺めることももうない。彼らの作業も一段落したのだろう。金槌の音もしなくなった。
郁也が「お姫さま」になる支度は着々と進んでいる。もう引き返せない。
待ち遠しいのと恐怖とで、郁也は毎日気が狂いそうだった。
似合ってキレイに仕上がれば仕上がるほど、有頂天になった自分は、次の瞬間その衣装をむいて出てくるのが、およそ姫君に相応しくない惨めな身体だと思い知らされる。
歓喜と絶望の確かな予感。
周りも無責任に誉めそやす反面、キワモノ扱いして「あんなことよくやるな」と郁也を内心小馬鹿にするだろう。
何より怖ろしいのは、郁也がお姫さまの扮装をこんなに楽しみにしているのが周囲に知られてしまうこと。
そしてまた、去年の「アリス」以降の一年間の成長は、郁也に今年の成功を約束しない。
(あと何年かしたら、身体はどんどん大人になって……)
真志穂のその言葉の重みを、改めて郁也は感じていた。どちらを選んでも、引き返せない分水嶺である。十六歳の郁也はその選択を自分の身に引き受けかねていた。
それに加えて。郁也の心のより深いところに捻じ込まれた一本の楔。
「白雪姫」に扮した自分の姿を、瀬川佑輔に見られてしまう。
見て欲しい。見られたくない。ボクに気づいて。いっそ気づかず通り過ぎて。
その日が近づくにつれ、結論の出ないジレンマは郁也の柔らかい心を蝕む。
佑輔は郁也のその姿を見て、気味が悪いと感じるだろうか。
それとも「可愛い」と思うだろうか。
佑輔に「可愛い」と思ってもらえるほど、可愛いお姫さまになれるだろうか。
そんな考えを、佑輔に「可愛い」と思われたがっている浅ましい心の内を、見透かされたりしないだろうか。
公式の学校行事だ。クラスの決定事項である。自ら望んだ役割ではない。別段どうってことない、ただのお遊びだ。何の意味もない。
気にしないための理由を幾つ数え上げても、楔は郁也の胸に刺さって抜けない。
佑輔は郁也の姿を見ても、何の反応も示さない、きっと。
何故なら、彼にとってそれは単なる風景だから。
同じクラスのヤツ。学校行事。ただ、それだけ。
それがいい。知られてヘンに思われるより、ずっといい。
知られちゃダメだ。絶対ダメ。
気にしてはいけない理由をどんなに言い聞かせてみても、楔は郁也の胸を抉り続ける。
郁也は周囲も自分をも、たやすく欺けるとたかを括っていた。期待も不安も、ないことにしてやり過ごせると無邪気に信じていた。
去年は上手くやってのけた。なのにこんなに胸が痛むのは、きっと彼を好きになってしまったからなのだろう。
出口なし。郁也はふっと全てを抛り投げてしまいたくなる。
(学校、辞めちゃおうかな)
「何で。何か、他にやりたいことでもあるの」
突然、郁也のぼやきに応えて、窓の下から声がした。
郁也は声のした方を見下ろした。
騒がしく聞こえていた物音がぴたりと止んだ。
工具箱を手に提げて、首にかけたタオルで額の汗を拭いながら、ひとりの生徒がこちらを見上げて笑っていた。
瀬川佑輔だった。
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