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発光効率-2
学院祭はやって来た。
天文部と物理部の展示「宇宙の誕生」は、予想通り来客の興味を惹かず、始めから三日目の午前まで、開催期間を通してずっと閑散としていた。
郁也たちはOBに対して面目を、級友たちに仮装準備に集中出来なかった言い訳を保ちつつ、ごく稀に天文写真を買っていく中学生の相手をする他は、至極ゆったりとした時間を過ごした。
歴代OBの中でも、現在顧問まで務める「ザ・OB」、郁也の担任の寺沢は、差し入れに陸上部の模擬店の肉まんを自分の分も買って来た揚句、ついでに夏休みの観測合宿の打ち合わせまで片づけようとした。
仮装行列の時間が迫る。一般客への公開終了後の見回りに向かうため、寺沢は肉まんの最後の欠片を口に放り込んでしぶしぶ立ち上がった。
「さて。お楽しみはウチのお姫さまの艶姿を残すのみとなりましたか」
故意とプレッシャーをかけるようなその呟きに、そのことを忘れた振りをして一緒に寛いでいた郁也は、寺沢の背中に向けて思いっ切りあっかんべーをした。
水上たちと自分のクラスへ戻ると、教室は仮装の準備にあたふたする者と、急いで弁当をかき込む者とでてんやわんやだった。級長の白井が彼らに気づいて叫んだ。
「ああ、君たち。腹拵えは済んだ? え、まだ」
それを聞いた周りは、まだ間に合うから、早く何か食べおけだの、俺の彼女からの差し入れを食うかだのと集まってきた。
特に郁也には、
「衣装の重さもあるんだから、空きっ腹じゃ途中でへたばるぞ」
「パンかなんか、俺買ってこようか」
「取り敢えず、こっちで座って休んでろよ」
などと、下にも置かない扱いだ。
主役の出来不出来で入賞が決まる。特に彼らが狙うのは、郁也が「仮装大賞」を獲ることなのだから、多少機嫌を取ってでも郁也のコンディションは整えておきたい。
だが、彼らの気の遣いようは、そんな打算だけではないらしかった。
いかんせん男子校のこと、家族以外の女性を目にする機会のない彼らにとって、衣装合わせ、ゲネプロ(通し稽古)と続けて目にした郁也のたおやかなお姫さま姿は、一種のカルチャーショックであった。
何と言っても、郁也は彼らの「お姫さま」なのだ。
郁也のまわりであれこれ世話を焼こうとする数人を見て、「女王バチとそれにかしずく働きバチ? ……うーん、違うなぁ」と水上が首を捻った。
「いや、これは。この感じは……、ええと。そうだ!」
ピーンと閃きに目を輝かせて、横田は指を立てた。
「八十年代の、『暴走族とそのマスコット』」
「おお。それだ」
「それだじゃないよ」
郁也は悲鳴を上げた。いよいよだと思うと食欲出ないし、それにさっき肉まん食べたから、まるきり空腹って訳じゃないから、と郁也は周囲に説明して、何とか勘弁してもらった。
「もう。何なんだよ」
ぼやく郁也を松山が捉まえた。
「谷口、ヒマなら手伝え。『鏡』の連中の頬・顎・額、金色な。べったり顔全体に塗るなよ、金色のファンデーション、高価いからな。細かいことは連中に説明してあるがイマイチ怪しいんで、ちょっとついて見て遣ってくれ」
松山は、郁也の顔は早くから作って崩れさせたりしたくないが、その連中ならどうでも変わらないから、と言った。最後に松山は郁也に優しくウィンクしてつけ加えた。
「俺たちの『お姫さま』は、誰よりキレイにしてやるからな」
(松山君、君もかい……)
郁也はがっくり肩を落とした。
ただ座ってても落ち着かないから、何かやってた方がいいかも。郁也は気を取り直して、言われたとおり他のキャストのメイクを手伝った。いつも真志穂のするのを見ているせいか、何となくイメージ通りに手が動いた。
「あれ、今年のテーマ、『シンデレラ』だっけ?」
「鏡」の前に膝をつきあくせく働く郁也を、「小人」のメイクの終わった横田が揶揄う。
「頼まれたの、松山君に」
郁也は手を止めずに答えた。横田などは郁也を至近距離で見慣れているので免疫があり、化粧や衣装が変わったくらいでは別段感激しない。その普段どおりの態度が郁也には有難かった。
「楽しみだな」
そう言う横田に、郁也は首をふるふる横に振った。
「楽しみじゃない」
「キレイにな」
「松山君に言って」
「ウケるが勝ち」で、面白がることを何よりクールと考えている学院生。
面白いことや笑えるネタをいつでも探している彼らにとって、郁也のお姫さま姿などは格好のえさだ。
故意と大袈裟に「ごっこ遊び」をしているだけ。夏休みが終わる頃には、もう郁也のことなど誰も覚えていない。
郁也は客観的にそう予測することで、冷静さを失わないように、はやる胸の高鳴りを抑えようと努力した。
あと数時間で、全てが終わる。
郁也のクラスの仮装は大好評だった。
適当な従者の格好をした演出班がCDプレイヤーのボリュームを上げて流す音楽に合わせ、交差点で止まるたび寸劇を繰り返して、詰めかけた市民にアピールする。
各クラスそれぞれに台本を拵えていろいろ仕込むが、郁也のクラスはそれをパントマイムのみのパフォーマンスとした。台詞のところは実際に喋るのに代えて、バイオリンで音を作ってそれを表現した。
子供の頃バイオリンをやってて今でも持ってます、というお坊ちゃまがちゃんとクラスにいるのが、この学院らしいところだ。
郁也は無言で泣くような仕草をしたり、倒れたり、笑ったりした。それが結果的に「白雪姫」の可憐さを最大限に引き出したようだ。
公道をパレードしているとき、歓声に次ぐ歓声、バチバチとたかれるフラッシュの向こうに、郁也は真志穂の姿を見かけた気がした。
真志穂は滅多に外出しない。自分の身なりを構わない真志穂だが、他人の目があるところへは、きっちりメイクし、服装も整え、気合の入った外見を作り込んで出かける。
その様はまるで、化粧と衣服が戦いに赴く騎士を守る鎧ででもあるかのようで、大勢の観客の中、別人のように作り変えた真志穂を見分けるのは不可能だった。
「大賞」は三年の或るクラスが演じた「お化け屋敷」に決定した。
「牡丹灯篭」をメインイメージに、クラスのほとんど全員がお化けになってぞろぞろ歩いた迫力が効を奏したらしい。
ヒロインのお岩のメイクもよく出来ていて、その質感を見た松山が大層悔しがっていた。演劇部での、松山の師匠格の先輩が施したものだということだ。
下馬評通り「仮装大賞」は郁也が獲得した。
準備の様子を偵察に回る他クラスのどこもが、今年の仮装大賞は諦めたものだったが、審査員の見解も彼らと一致したのだった。
級友たちが歓喜に沸く中、郁也は心地よい疲労感に陶然としていた。
表彰式の後は、打ち上げをかねた後夜祭。これも部外者は入れず、学院生だけで行うキャンプファイヤーのような、ダンスパーティーのような、何だか賑やかなものだが、飲食なしで男だけ、仮装行列の直後という高揚感がなければ盛り上がりようのない催しだ。
後夜祭が終わるまで、ヒロインを演じた生徒はその扮装を解かないのが不文律となっている。
「白雪姫」の衣装をつけた郁也におおっという歓声を浴びせた連中が、入れ替わり立ち替わり郁也の前に進み出て、うやうやしく郁也の手を取り、一緒に踊ってもらいたがった。
軽音部の生演奏をBGMに、彼らは「彼女」を囲んで踊り歌い騒ぐ。知らないひとが見たら、さぞかし異様な光景であろう。
これも結局、世間と切り離されて勉学に勤しむ彼らの若い情熱を上手く逃がす、有効な手段に違いない。
鬱勃たるパトスがその出口を求めて奔流する。そのところどころに水路を設けて、その濁流が氾濫しないように。
伝統とは、つまるところそうした装置の継承なのかも知れない。
喧騒の中、松山がやってきた。小さな白いものを、にゅっと郁也の目の前に突き出した。プラスチック製の、角の取れた薄い箱。松山は言った。
「これ。渡しとく」
郁也はそれを受け取った。郁也の仮装に使ったファンデーションだった。
残しておいても演劇部では使わないので要らないのだ、と松山は言った。
「一般審査員とはあんまり距離がないからさ。せっかくこんなにキレイなのに、ドーランべったりにしちゃ、お客さん引くだろ。普通っぽいメイクにしたから。お前も貰っても困るだろうけどさ、彼女にやるなり、お袋さんに渡すなり、好きにしてくれ。お疲れさま」
部の方の片づけでもあるのか、それだけ言うと松山は郁也の肩をポンと叩いて去っていった。
郁也は手にした白いケースを開いてみた。薄茶の肌がうっすら凹み、鏡に郁也の青ざめた頬が映った。遠い篝火に照らされ、睫毛が長い影を落としていた。
魔法の時間はじき終わる。郁也は今年も隠しおおせたと思った。長い緊張の時間が終わる。
郁也は辺りをそっと見回した。今この瞬間、郁也に注意を払う者はいなかった。
(そろそろ、終わりにしよう)
ドレスを脱いで化粧を落として、「お姫さま」は終了だ。終わりの合図を待つのではなく、自分から魔法を解くのがいい。今夜はゆっくり休みたい。
ノリのいいヒップ・ホップが流れるグランドを、郁也はこっそり後にした。
郁也は正規の生徒玄関ではなく、理科室や美術室のある専門棟へ向かった。美術室脇の戸が開けば、教室までの近道になる。
郁也はドレスの裾を片手でつまみ、雑草にヒールを取られないよう注意しながら、人気のない薄暗がりを進んだ。
教室の戸を開くと窓際に人影があった。それはゆっくりと振り返った。
「瀬川君……」
郁也たちの二階の教室には、夕陽の名残が仄かに漂っていた。誰もいないと思っていた郁也は、驚いてその名を小さく叫んだ。
西空を背に佑輔の頬の輪郭が、ふ、と笑ったような形に動いた。
「抜け出して来たの」
「うん。もう衣装取っちゃおうと思って。疲れたよ」
郁也は勇気を振り絞って最後の演技をした。
「待てよ」
ドレスの紐に手を伸ばした郁也を、佑輔は制して手招きした。
薄暮に浮かぶ佑輔は、だらしなく窓枠に凭れていてもどこか清潔で、下界に落とされた天使のようだと郁也は思った。すっと通った鼻筋、着崩したシャツの胸許に鎖骨の窪みが濃く影を作る。
催眠術にでもかかったように、招かれるまま郁也は佑輔の許へ歩いた。しゃりしゃりと衣擦れの音がした。
「俺の言ったとおりだったろ」
佑輔は郁也の姿を満足気に眺めてそう言った。
郁也は化粧が崩れて、目の周りや鼻の頭が汚れてないか気になった。
窓からは後夜祭で盛り上がるグラウンドが見える。軽音部の演奏が聴こえてきた。いつしかスイングジャズの名曲になっていた。
「証明してやるよ。約束だからな」
「……瀬川君」
佑輔は意地悪くなのか、悪戯っぽくなのか、くすりと笑って郁也に次の金曜日の予定を尋ねた。夏休みに入って三日目だ。
郁也は何もないと正直に答えた。すると佑輔は駅前の大きな電器屋の名を挙げ、駅側の入り口に一時、と言った。郁也は言われるままに頷いた。
いつまでも抜けていると誰かに気づかれる。
「可愛くして来いよ」
そう言い残して佑輔はグラウンドに戻っていった。
佑輔の足音が廊下を遠ざかり、階段を駆け下りるうちに聴こえなくなった。
郁也は窓から外を見下ろした。
少しして、専門棟側の木陰から、大股で歩く佑輔の姿が現れた。
グラウンドに降りる石段の手前で、その歩みがふと止まった。郁也は佑輔がこちらを振り返ったような気がした。
一瞬の後、佑輔は石段を駆け下り、クラスの連中の集まる一隅を目指して走っていった。
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