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発光効率-3
時間がない。
郁也は真志穂に金曜日の話をした。
真志穂は大喜びで、郁也の作戦参謀を買って出てくれた。
女性にしてはかっちりとした身体つきの真志穂は、実は郁也と服のサイズが同じで、いつも真志穂の部屋で郁也が着せてもらっているのは全て真志穂のものだった。
真志穂は真志穂で、ミシンが使えるのをいいことに、次々通販でいろんな服を買い漁り、あっちを出したりこっちをつづめたりして楽しんでいる。その時思い描くのは、それを身につける郁也の姿であることも少なくないようだ。
そんな訳で、衣装は潤沢に揃っていたが、問題なのは靴だった。女性の真志穂と足のサイズまで同じという訳にはいかない。
これまで郁也の着せ替えは真志穂の部屋を出たことがなかった。佑輔にあんな啖呵を切った郁也だが、女のコの姿で街に出るのは郁也にとってもチャレンジだった。「仮装」ではないのだ。
自分の身体が女のコとして通用するかどうかが試されてしまう。
怖い。
あの姿で、街行くひとの視線を浴びるのが怖い。
佑輔に失望されるのが怖い。
(あれ? 「失望」って、瀬川君がボクに望みを持ってるってこと?)
真志穂は「丁度自分の夏服を買いに出ようと思っていたので、一緒に来るように」と持ちかけた。
通販では註文してから品物が届くまで時間がかかり過ぎる。
郁也は、取っておいたお小遣いの中から、初めて自分に、女物の靴を買おうと決心した。そのためには、女のコの格好で店に行かなくてはならない。
夏休みに入ってすぐ、ふたりは連れ立って買い物に出た。
郁也は前回着せてもらったピンクのワンピース。家からは男女の区別のないようなシンプルなデザインのサンダルを履いてきた。真志穂はカーキのミニスカートに白のジャケット。郁也より幾分大人っぽく仕上げた。
真志穂の部屋から二十分歩いて駅前のデパートへ。ひととすれ違うたび、郁也の肩は強張った。唇をきつく結び顔を伏せて通り過ぎる。
「そんなにキンチョーしてる方が目立つよ。普通にしてなよ、顔上げて」
真志穂にそう言われて、頑張って顔を上げてみた。想像したより、ひとびとは郁也に注意を向けない。郁也は徐々に慣れてきて、デパートに着く頃には歩きながら真志穂と普通に話が出来るまでになった。
まず真志穂が夏向きのシャツドレスを買った。郁也は生まれて初めて、そこにある品々への関心を隠さずに、婦人服の売り場に立ち入った。
これまでは、目的の売り場へ行く途中たまたま通過しているだけで服に興味はありませんという顔で、目だけはしっかり横目で売り場を見ながら、足早に立ち去るしかなかった。
今日は立ち止まり手に取って、きれいなカットソーやスカートを真志穂とあれこれ品定めをした。
誰も郁也を気にしない。郁也を変な目で見ない。郁也は喜び、安堵した。と同時に、拍子抜けもした。
(なあんだ、こんなもんか。心配してソンしちゃった)
こんなことなら、これからもたまに女のコとして外へ出ちゃおっかな。勿論、まほちゃんと一緒に、だけど。ひとりじゃ、怖いよね、やっぱり。
「いくちゃん、買うならパンプスにしなよ。多少サイズ大きくても女のコっぽく見えるからさ」
「うん。ボクよく分かんないから、まほちゃん、選んで」
少し考えてから真志穂が、じゃあ白いのがいいねと言ったので、郁也は真志穂とそういうのを幾つか手に取った。郁也の履けるサイズで、いいのがひとつ見つかった。
店員さんに「可愛いデザインですよね。お客さまにお似合いですよ」と言われたとき、郁也はつい泣いてしまった。
「いくちゃん」
真志穂が郁也の肩を撫でた。
「うん。うん、ごめん」
郁也は指先で涙を拭った。怪訝そうな店員さんに「こんなカカトの細い靴、初めてなんです。ずっと憧れてて……」と言い訳した。店員さんは、にっこり笑って包んでくれた。
これをはいたボク、可愛くキレイになれるかしら。まほちゃんみたいにスッスッと歩けるかな。
郁也はすぐにも練習したい気分だった。帰りは真志穂の部屋までそれをはいて歩いた。
予行演習はそこでお終い。真志穂の部屋で衣装を脱いでメイクを落とせば、出てくるのは男のコの郁也だ。
郁也は今日買った靴を大事に包んで箱に戻した。
郁也は約束の場所へ向かった。
夏休み三日目の金曜日。昨日おとといと、郁也は真志穂の部屋に入り浸りだった。今日の準備もさることながら、郁也は不安でひとりでは過ごせなかったのだ。
今日も一時の約束に、身支度のため真志穂の部屋に着いたのは九時半だった。
真志穂が着せてくれたのは、先日真志穂が買ったシャツドレスだった。
下着のラインの目立たない、やや濃い目のオレンジに白と紺のチェック地をざっくり長いシャツに仕立てて、アクセントに共布のベルトがローウエスト気味についている。
郁也の買った白いパンプスによく映えて、今日は明るく活動的なイメージだ。
早く行きたい、彼の姿を見つけたい。今日のボクを見て欲しい。
約束なんか反故にして今すぐ帰りたい。彼にこの姿を見られる前に。今ならなかったことにしてしまえる。
お馴染みの葛藤が郁也を苦しめる。頬が熱い。
いた。佑輔だ。
佑輔は白い綿のシャツにデニムのパンツ、どこにでもある普通の服装だ。
それなのに、こんなにカッコいいのはどうしてだろう。学校の外でも、やっぱり佑輔のところだけ明るく見える。郁也は不思議に思いながら息を整えた。拗すねたような不貞くされたような表情を、精一杯作って近づいた。
「来たよ」
恐怖を押し隠して、不機嫌そうに郁也は言った。
「さあ、どこへなりと連れてけよ」
現れた郁也の姿に、佑輔は言葉なく立ち尽くしていた。
佑輔の沈黙は、郁也の胸の恐怖を更にかき立てた。郁也はこのまま走って逃げ出したい衝動と戦った。ここで逃げたら、郁也の負けだ。
「……そんなに、変?」
おかしい筈はない。こないだだって平気だった。真志穂はキレイにしてくれた。今日のボクは、まほちゃんの自信作。
佑輔の唇が僅かに動いた。
が、真空に隔てられてでもいるかのように、郁也の耳には何も聞こえなかった。
きっと、後悔してるんだ。軽いノリで決めた罰ゲームが、こんなに重いものだとは思わなかったんだ。それなのに、ノコノコこんな姿でやって来て。何て馬鹿なボク。
佑輔の顔の輪郭がぼやけた。
「変じゃないよ」
やっとそれだけ言った佑輔の声は掠れていた。
郁也は俯いた。地面にぽた……と滴が落ちた。いけない。まほちゃんのメイクが台無しになる。
郁也の髪に、温かいものがそっと触れた。
「ごめん」
佑輔の手だった。佑輔は郁也の頭をそうっと撫でた。
「ちっとも変じゃないから。ごめんな、谷口。ごめん……」
郁也は急いで取り出したハンカチで、こすらないように注意して目許を押さえた。
「どうして、謝るの」
「いや」
佑輔は郁也の頭から離した手をきゅっと握り、言葉を捜すように宙を見た。
ようやく耳に届いた佑輔の声を逃すまいと、郁也は濡らしたままの瞳を上げて待った。
佑輔は郁也の視線を眩しそうにぷいとかわした。
「行こう」
ぶっきらぼうにそれだけ言い、佑輔はヒールをはいた郁也をそっと促した。
佑輔が郁也を連れていった先はプラネタリウムだった。
ふたりが待ち合わせた中心街から程近いところに公園がある。その公園の周りには図書館や美術館、体育館といった文化施設が並び、その中の建物のひとつ、科学館にプラネタリウムはある。郁也は幼い頃、ここに来るのが大好きだった。
「人工の星空なんて、興味ないかな」
佑輔は郁也を振り返り、気遣わしげにこう言った。郁也は慌ててかぶりを振った。
「ううん、そんなことない」
硬い床材に、ヒールの音が響く。郁也は靴がカツカツ言わないように苦心した。
「前はよく来たんだ。中等部の頃までは」
「そう。よかった」
西の空で、夕陽が沈むのを待っている。それを背に、佑輔は笑ったように見えた。
今年の夏も、郁也は横田たち部の面々と、天体観測を予定している。しかし、南十字星を見るのは久し振りだった。
郁也は今、佑輔と並んで南半球の星空を見上げている。
佑輔の脚は長くて、前の座席との間に窮屈そうに折り畳まれている。耳を澄ますと、音楽やナレーションの切れ間には佑輔の呼吸が聞こえてきた。
ひとからは、佑輔と自分は若い男女に見えているのかな、と郁也は思う。
このひとの隣に座るのに、自分は相応しい姿をしているだろうか。
中身はどうあれ、見た目だけでも、佑輔に恥ずかしい思いをさせたくないと郁也は思った。
隣の席で空を見上げる佑輔。その身体の、空間内に占める拡がり、重み、温かさ。どれも皆、郁也にとっては、この上なく大切な感覚に思えた。
この感じを、今日のことを、自分はきっと忘れない。
手に入れることの出来ない宝物。
でもそれを、記憶の中に仕舞っておくことくらいは。
どうかお願い、許してください。
東の空が、朱く染まった。
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