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ようやく栄養がとれた赤ん坊は、傷の治りもよくなったように見えた。
「赤ん坊の成長に合わせて果汁以外のものも摂取させないといけませんよ」
そう医師からは言われたが、僕もソフィーもヒトの赤ん坊がどの程度成長したら固形物を取れるのか分からなかった。仕方ないので時々、1日3回果汁を与える合間に、町の畑で採れた野菜をすりつぶして作ったスープを何度か与えてみた。中々飲んではくれなかったが、赤ん坊を拾ってからまん丸の月を5回見た頃だっただろうか。赤ん坊はようやくスープを飲み込めるようになった。僕とソフィーが安堵したことは言うまでもないだろう。
赤ん坊の世話をつきっきりでしている間、門番の仕事は休ませてもらっていた。しかし果実を村の外まで採りに行かなくてよくなったこともあり、僕は仕事に復帰した。僕が門番をしている間はソフィーや僕の母が赤ん坊の世話をしてくれた。
「なんでこの子はゴミ山にいたんだろう」
「この子が1人で来られるわけがないんだから、きっと親が捨てたんでしょう」
「あのゴミと同じように? なんでそんなことするのさ」
「去年の夏は寒かったから……この町と同じように、ヒトの王国でも不作だったんじゃない?」
「つまり……どういうこと?」
「口減らし……住人を減らして少ない食料で生き延びられるだけの人数にしようってことでしょうね」
ソフィーは何でも知っている。僕は分からないことがあると、なんでも彼女に聞いているような気がする。
「それよりも、イグニス。あなたこの子にいつまでこんな格好させてるつもりなの」
ソフィーは普段優しいが、時々とても怖い。現に、今も不満そうに唇をとがらせて僕をにらみつけてきている。
「こんな格好?」
「布巻いただけの格好ってこと! この子、女の子よ。いつまでもこんな姿可哀想だわ」
なるほど、確かにそうかもしれない。僕たち男は利便性重視で腰布を巻いただけの格好だけれども、女性はいつもきらびやかな布を身につけている。そういうものなのか、と思って母に相談したところ、色々な家から子どもが幼いときに身につけていた衣服がうちに集まってきた。本当にみんな親切でありがたい話だ。皆のおかげで、赤ん坊は傷も治って、ご飯も食べられるようになり、女の子らしい服も着られるようになった。ヒトも、こんな風に助け合えばこの子を捨てずにすんだんじゃないかな、なんて漠然と思った。
「青い澄んだ目をしているから、海を意味する『マーレ』がいい」
赤ん坊の名前はソフィーが決めた。僕たちは海を見たことがないけど、マーレの瞳が海の色であるならば、きっと美しいものなのだろうと思う。ソフィーは本当に何でも知っている。そして赤ん坊は、普通の僕たちが食べているような食事もとれるようになってスクスクと成長した。マーレを拾ってから季節が6回巡った頃には、もう一人前に喋って走り回るようになっていた。
「イグニス、私もなにかみんなの役に立つことがしたい」
マーレがそんなことを言い出したのは、マーレがだいたい7歳になったそんなある日のことだった。
「突然何を言い出すんだ」
「だって、みんな何か自分の役割があるよ。私も何かしたい」
マーレは言い出したら聞かないところがある。そういうところは僕に似たのだと、よくソフィーに笑われる。しかし、マーレはまだ子どもなのだから、そんな役割なんて考える必要はないのだ。
「マーレ。お前はまだ幼いのだから、いっぱい勉強して、いっぱい遊ぶのが仕事だろ」
「勉強はちゃんとしてるもん。ソフィーお姉ちゃんにもいつも褒めてもらえるもん」
マーレは僕のことは呼び捨てにするのに、なぜかソフィーのことはお姉ちゃんと呼ぶ。いつも少し複雑なのだが、それは今関係ないので置いておく。
「だったら十分だろう。今すぐじゃなくて、いっぱい勉強していつか役に立てばいいさ」
「でも、何かしたいよ。だって、私はみんなと違うのに、みんなすごくよくしてくれる」
マーレの言葉に、違和感を覚える。「みんなと違う」? マーレが僕たち竜人族とは異なるものであるということは、僕もソフィーも、もちろん長老たちも誰も伝えていないはずなのに。一体誰がそんなことを言ったのだ。口には出さなかったが伝わったのだろう。マーレが言いづらそうに口を開く。
「分かるよ。昔話に出てくるもん。私はみんなを村から追い出した『ヒト』なんでしょう」
マーレが言う昔話とは、僕たち竜人族が小さいときから繰り返し聞かされるこの町の成り立ちの話のことだろう。「ヒトと竜人族は、決して交わるべからず」の掟に関する歴史の話だ。
遙か昔、恐らく長老が生まれるよりももっと前。竜人族は元々ヒトと同じ村で協力して生活していた。しかしある時を境にして、ヒトは竜人族を迫害するようになった。竜人族はヒトと比べて長命だからか、出生率が低い。村が大きくなるにつれて、竜人族は少数民族ということで圧倒的多数であるヒトから差別を受けるようになった。長らく対立が続いたある時、ヒトは王国で暮らしていた竜人族を住み慣れた土地から追放した。そして祖先は王国の近傍にあった深い谷の底にたどり着き、そこで町を作った。谷底は王国に暮らすヒトがゴミを廃棄する場所であったが、ヒトよりも強健な竜人族はヒトが決して訪れないこの場所で町を作ろうと決めた。大体このような話だ。
「別に、誰も今更ヒトのことを恨んでなんかいないだろ」
「でも、ガラーはいつもこの話を私にする」
マーレの言葉に、はっとさせられる。そうだ、町の子どもはみんなこの話を繰り返し聞かされている。僕やソフィーのようにただの昔話として今のこととつなげて考えない竜人もいる一方で、ヒトと竜人族の対立は今も続いているものとしてヒトを憎む竜人だっていてもおかしくないのだ。だって、僕たちは今でもヒトとは交わらずにこの薄暗い谷底で暮らしているのだから。押し黙った僕の様子を窺うように、マーレが俯いた僕をのぞき込んできた。
「イグニス?」
「あ、いや。とりあえず、マーレはあんまり気にしすぎないでいい。ガラーとは僕がちゃんと話しておくから」
「……うん、ありがとう。でもガラーのことだけじゃない。私が何かしたいと思うのは、みんなが優しいからだよ」
「どういうこと?」
「みんなが優しいから、みんなの役に立ちたいんだよ」
そう言い切ったマーレの表情は晴れやかで、強がりを言っているようには思えなかった。恐らくこのままでは押し問答になる。どうしたものか。そんなことを考えていると、階下の母親から「そろそろ寝なさい」という声が掛かった。渡りに船とはこのことである。僕は曖昧な笑みを浮かべた。
「とりあえず、マーレは寝なさい。ちょっと僕が考える時間をちょうだい」
僕がそう言うと、マーレは「分かった」と言ってベッドに潜った。マーレが食い下がらなかったのは、僕がちゃんと考えると信頼してくれているからだろう。いい子に育ってくれた。だから僕はマーレの信頼に応えないといけない。
「なに難しい顔してるの」
母が笑いながら、皺が寄っていたであろう僕の眉間をぐりぐりと押さえてくる。とりあえず、マーレに言われたことを洗いざらい話した。
「うーん、村のこともマーレのことも、僕になんとかできるのかなって」
「マーレが何をしたいのかはあなたがちゃんとマーレと考えてあげなさい。あなた、あの子の親代わりでしょう」
「……うん、そっちはそうするよ。でも村のこと、ガラーのことは」
「そちらは私や長老、大人たちがなにか考えるわ。私、あなたの親だものね」
母の言葉に、ああまだ僕は母のような強い大人にはなれてないなあと悔しく思うとともに、母の優しさが素直に嬉しかった。
僕とマーレが町のために、みんなのためにできること。まだ僕には思いつかないけれど、マーレが自分なりにしっかりと考えてきたことだ。ならば僕は、協力を惜しむわけにはいかない。母が僕のことを大事に思ってくれるように、僕もマーレのことを大切に思っているのだから。
朝、眠そうに目をこすりながら起きてきたマーレに声をかける。
「おはよう、マーレ。今日は忙しいぞ」
「どうしたのイグニス」
「まずは『お前が何ができるか』をちゃんと考えないといけないからな」
僕の言葉にピンときていないのか、マーレは首をかしげている。
「まあ村のことを考える前に、自分の朝の準備をすることからだな」
そう僕が笑うと、ようやくマーレは自分の昨晩の言葉と僕の言葉が結びついたようだった。ぱぁっと花が開くような笑みを浮かべ、マーレは大きな声で、
「分かった! とりあえず顔洗ってくる」
と叫んで、水場へ走って行った。
「とりあえずは、朝ご飯食べなさいよ」
走り去るマーレの背中に向かって僕が掛けた言葉は、彼女に聞こえたのかどうか判断がつかなかった。
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