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最後に
***
俺は母さんのために薬草が採りたかっただけなのに、どうしてこんなことになったんだ!
「どこへ行った?」
「早く探し出せ!」
くそ、しつこい奴らめ。なんなんだあのヒトもどきは。心の中で悪態をつきつつ、なんとか助かる方法を模索する。
俺がこいつらのすみかに足を踏み入れたのは、本当に偶然だった。崖に生えていた薬草を採ろうとして足を滑らせ、谷底へ真っ逆さまに落ちたのだ。生きていたのが不思議なほどだ。しかしせっかく拾ったこの命だが、このままではこんなところで散らしてしまうことになる。
そして、こいつらヒトもどきだ。谷へあまり近づくなとは言われていたが、まさかこんな奴らが谷底に住み着いているなんて聞いていない。こいつらが何者かは分からないが、俺を見つけた途端に俺に武器を向けてきたぐらいだから、友好的でないことだけは確かだ。 物陰に隠れて奴らの様子を窺っていると、ふいに陰が頭上に落ちてきた。しまった、油断した。反射的に上を見やると、そこに立っていたのはまだ幼さの残る人間の少女であった。
「え、あれ?」
「……お兄さん、もしかしてヒト?」
「ああ、多分君と同じ……だと思う」
少女は俺の言葉を受けて、こっそりと家の中に招き入れてくれた。ありがたい。走り続けて隠れ続けて、精神的にもういっぱいいっぱいだったのだ。
どうぞ、と差し出されたお茶を口に含む。ピリッと刺激が走ったが、谷底のお茶はそういうものなのかもしれない。
「ありがとう。……君はここに住んでいるのか?」
「そうだよ。あのゴミ山でイグニスに拾ってもらったの」
ゴミ山、というのは俺たち王国民が捨てたゴミがたまったあの場所のことを言っているのだろうか。そういえば何年か前、冷夏で不作だった年に大規模な口減らしが行われたことがあった。この子どもはもしかしたらそのときに捨てられた赤ん坊の内の1人なのかもしれない。よく生きていたものだ。そして俺の中にひとつ光明が見えた。この子どもを生かした「イグニス」という奴は、人間に友好的な可能性がある。俺はもうその可能性に一縷の望みをかけるしかない。
「お兄さんはどこからきたの?」
「俺は崖の上の王国から来たんだ。崖を落ちてしまってな……。住んでるところは大国だよ。俺の家には金なんてないがね」
国と自分を比較した自虐で笑わせようとしたが、少女は首をかしげてポカンとしていた。そうか、ヒトの中で暮らしていないから、俺たちの思うジョークも通じないのだ。そう自覚すると途端に、見た目は俺と同じなのに、どこか遠い生き物のように感じてくる。気まずい空気を払拭したくて、俺は話題を変える。
「俺の名前はシノブ。君のことはなんて呼べばいいかな」
「私はマーレだよ。この町で小料理屋さんをしてるの」
マーレの言葉に俺の思考が停止する。この幼い少女が働いているのか? まさか奴隷のように扱われているのではないだろうか。心配になったが、マーレの姿を見てすぐに思い直した。こぎれいな格好をしているし、栄養状況も悪くなさそうだ。そういえば先ほどからマーレとの会話はちゃんと成立しているし、あの人型の生物はきっと知性もあるのだろう。話せばなんとかなるかもしれない。
「さっきイグニスという名前を出していたけど、その……人?は優しいのかな?」
「うん! すごく優しいんだよ!」
今はマーレの言葉を信用するしかない。イグニスに会ってみよう。俺は原をくくった。
人間に出会ったことで安心したのか、急に睡魔が襲ってきた。しかしイグニスという男に会うまで気を抜くわけにはいかない。見たところ、この人型の生物の身のこなしは相当のものだった。もし本気で殺すつもりで向かってこられたらひとたまりもないだろう。考えただけでゾッとする。
「大丈夫? 眠い? あ、おなかは空いてない?」
「うん、大丈夫だ……そういえば君は小料理屋さんだったか」
「そうだよ! 何か食べる? 料理は自信あるよ!」
今まで緊張感で麻痺していたが、そういえば昼食がまだだった。思い出したら途端に空腹感を覚えた。俺の様子に気がついたのか、マーレはにこやかに「ちょっと待ってて」と言ってどこかへ行ってしまった。
マーレに置いて行かれると、途端に不安になる。今イグニスが戻ってきたとして、俺の姿を見たらどうおもうのだろうか。俺はなんと言い訳すれば助かるのだろう。そんなことを考えていたら、マーレがお盆に何かをのせて戻ってきた。
「はい、これどうぞ」
「……いいのかい?」
「うん。困ってる人がいたら親切にしなさいって、教えられてるもん」
マーレの言う「人」は人間のことを指しているのではないだろうなと思ったが、そんなことはどうでもよかった。とにかく今は目の前の料理が美味しそうでたまらない。谷底の料理は、俺たちの料理と見た目はそう遠くなく見えた。王国民はゴミをなんでもこの谷に捨てるから、マーレも人間のレシピ本を見たことがあるのかもしれない。
見た目はいいのだが、味はどうなのだろうか。谷底の食材は、俺たちのものとは違うのではないだろうか。恐る恐るスープに口をつける。
「……美味しい」
「でしょう?」
やや舌先がピリピリするが、味付けはとてもいい。お茶もピリッとしたので、谷底ではスパイスを多用するのかもしれない。スープを飲み干すと、満腹感からか温かい物を口にしたことからくる安心感からか、あらがえないほどの睡魔が襲ってきた。しかしイグニスに自分のことを説明しなければ。その一心で船をこぎながらもなんとか意識を保とうと努める。俺の涙ぐましい努力を見て、マーレは笑った。
「シノブ。大丈夫だよ。イグニスが来たら私が説明してあげる。安心して休んで」
マーレの言葉を最後まで聞き終えることなく、俺は意識を失った。
「ほう……ヒトか」
ふと、誰かの声が聞こえた。意識はなんとなく浮上していたが、目が開かないし体も動かない。俺はどうしてしまったのだろうか。何も見えないが、聴覚だけはしっかりと機能していた。唯一残された感覚に、全ての意識を集中させる。
「うん、崖から落ちちゃったんだって。ちゃんと親切にしたよ」
「……そうだな。よくもてなした。さすが、フラムとイグニスの教育がよいからかな」
「もう、からかわないでくださいよ長老。それにしてもこのヒト、起きませんね」
「崖から落ちて、ガラーたちに追われて。よほど疲れたのだろう。今日はわしの家で休ませる。明日起きたら王国に戻れるように手配しよう」
「ありがとございます、長老!」
「お願いしてしまってもよろしいのですか」
「ああ、問題ない。それでよいな、ドクトル」
「……はい」
ドクトルと長老と呼ばれた2人に、どうやら俺は連れて行かれるらしい。話の流れから行くと、俺はちゃんと帰れるみたいだ。ひと安心する。だが、なんだろう。とてつもなく眠い。そして頭に反して体が全く動かない。……何が起きているんだ?
そして、どこかに体を下ろされた。手足の感覚がない。ここがどこなのか、何も分からない。
「さて、最後に残るのは聴覚と言われるが、聞こえておるのかな」
長老と呼ばれていた男のしわがれ声が聞こえる。「最後に」? どういうことだ? 俺は帰らせてもらえるんじゃなかったのか?
「まず、わしもドクトルも、おぬしのことが憎いわけではない。そしてマーレも、何も知らなんだだけのことだ。あの子のことは悪く思わないでやっておくれ」
「この町はですね、あなた方ヒトが垂れ流したゴミによって、土壌が汚染されているんですよ。我々は順応していますが、いきなり摂取したあなたでは耐えられなかったでしょうね」
こいつらは何を言っているんだ? いや、あのお茶とスープを飲んだときの、舌に刺さるような感覚。まさかあれは。
「マーレもよく順応したものだ。汚染が少ない果実から始めたとはいえ、もう町のものを食べても吐き出さなくなったのだから。わしはあの子もすぐ死んでしまうと思っていたよ」
「あの子はもう体の中からこの竜人族の町の子なんですよ。たとえ姿形が我々とは異なっていてもね」
次第に声が遠くなっていく。俺が置いて行かれたのか、それとも意識が薄れて行ってしまっているのか。待ってくれ、行かないでくれ。俺はまだ、母さんに薬草を…………。
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