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「でも、まさか帰ってきてないなんて思わなくて。日が暮れてから岳が慌ててテントに来てさ。お前が戻らない、どこに行ったか知らないかって——」
「すみません、ほんとに俺……」
「無事でよかった。文太にまでなんかあったら、親御さんになんて言ったらいいかわかんないし」
文太はカップを握りしめて、ミルクで濁った水面に視線を落とした。
自分を探している時の梓は——どういう心境だったのだろう。
それはきっと、ひとりで夜を明かした自分よりも、さぞ辛いものだったに違いない。
しかし梓の目は、そんな葛藤を映し出すことなく、穏やかに光っている。
その強さが眩しく、美しかった。
「俺、梓さんにひどいこと言いました」
「別に気にしてない」
「あれ、本心じゃありません……」
「わかってるから」
梓は、被せるように言った。
まだ伝えたいことがあったが、今はとりあえず口をつぐんでおいた。
梓がこの話題を蒸し返して欲しくなさそうだったからだ。
彼は手に持っていた蒸しパンをふたたびちぎると、文太の口元までもってきた。
口を開けると、かけらを放り込んでくれる。
「これ、出がけに岳が渡してくれてさ。一緒に食べるために文太が作ってくれたんだろ?」
「まあ……そうです」
生地を噛むと、ほんのりとした甘みが広がった。
「一緒に食えてよかったよ、本当に」
彼は残りをすべて自分の口に入れると、立ち上がった。
文太も、紅茶を飲み干してから腰を上げる。
体のふらつきや震えはなく、もう歩行ができそうだった。
「あの、梓さん」
呼び止めたはいいものの、言葉がでてこない。
謝罪? お礼?
それとも……
「先歩け。ゆっくりでいいから」
そのうちに梓に急かされて、文太はとりあえず頷いた。
寝不足だが、先ほど食事を取ったおかげで歩行に支障はない。
稜線にぶつかる前の登りで、梓はスマートフォンを取り出し、小屋に連絡を入れた。
この辺りが一番、電波が入るらしい。
梓が事情を説明すると、安心したような岳の声が漏れて伝わってた。
文太ももちろん、直接謝罪をした。
彼も梓と同様、一切責めることなく、ゆっくりでいいからちゃんと帰ってきなさいとだけ言ってくれた。
——岳と話すと心のつかえがなくなり、足取りも軽くなった気がした。
帰ったら、たくさん働こう。
罪滅ぼしになにができるかを考えながら、足を動かした。
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