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稜線に出ると、すでに朝日が遠くの峰々を赤く縁取っていた。
「きれい……」
文太は思わず呟いた。
小屋にいる時は忙殺されるあまり、日の入りを楽しむ余裕などなかった。あたりが白んでくると、生じてくるのはただただ焦りばかりだったのだ。
しかし、梓と見る朝日はこんなに—————
「梓さんと朝日見られて、よかったです」
絶望に塗りつぶされていた昨夜。
その漆黒に、安らぎが塗り足されていく。
ネッグウォーマーに顔を埋めながら、梓がこちらを見た。
「そのダウン、やるよ」
「え!?」
「いつまでも兄貴のヨレヨレのお下がりじゃあれだし。それ、あんま着てないやつだから」
あきらかに値の張るものだということはわかっていたが、遠慮は野暮だと思い、文太はとりあえず笑った。
「えへへ」
「なんだよ」
「梓さんのダウン、あったかいなって」
襟には彼のにおいが微かに残っている。
顎を埋めると、近くに感じられるようで嬉しかった。
「お前、やっぱり雷鳥みたい」
「そうですか?」
「うん。文鳥より雷鳥だな」
彼は微かに笑って、再び朝日の方を向いた。
寒さに動じることなく真っ直ぐに背筋が伸びた梓。朝の澄徹した空気や、ほの明るい光がその横顔を縁取る。
ただそれを見ているだけで、彼と迎える朝が、特別なもののように思えた。
「見てみたいなあ、冬の雷鳥……」
それはどちらかと言うと、場つなぎで発しただけだった。
なにかを発していないと、彼に捕らわれたままになってしまいそうで、気を分散させたかったのだ。
梓が振り向く。
その澄明さ、強さ、寡黙さ。
まるで水紋ひとつすら立たない、冬の朝の湖のようだと思った。
「じゃあ、行くか」
「え?」
「いつか見に連れてってやるよ」
穏やかな波紋が、文太を取り囲む。
つま先から喉元までが震え、棘が抜けるかのように自然に、その一言は体から出てきた。
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