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いつの間に起きたのか、男がこちらを見つめている。
切れ長の一重まぶたは微かに見開かれ、まるで飴玉のような黒目は揺らぐことなく、文太を捉えていた。
静かだが力強い、独特な力にのまれてしまい——第一声がなかなか出てこない。
文太はピアノの鍵盤を叩くように、足の指を床で踊らせた。
「なんで?」
先に言葉を発したのは、男のほうだった。
「え?」
「なんで……?」
男は同じ言葉を2度、繰り返した。
2度目に発した時は、そのぽってりとした赤い唇が、最初のときよりも震えている気がした。
どうやら、こちらが勝手に侵入したことに腹を立てているわけではないらしい。
彼からもたらされた微かな振動は、床を伝って文太の足先に染み込んできた。
「ちょっと雨宿りに」
文太は、男の問いかけと同じように、ごく短い返事をした。
それが正しかったのか、それとも間違えていたのかはわからない。
しかし、文太の声を聞いた彼の目はさらに見開かれ、胸は激しく上下し、呼吸の乱れを目視できるほどだった。
「なにそれ……」
言いながら彼は、膝に顔を埋めてしまった。
表情はわからないが、肩が震えている。
男の感情がまったく読み取れない。
文太は舌先で前歯の裏側をなぞって、適当な言葉がどこかに引っかかっていないか探したが、あいにく見つからなかった。
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