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ふたりでしばらく歩いていると、向こうから人がやってくるのが見えた。
ジャケットの赤味しかわからなかったシルエットが、近づくにつれて、だんだんはっきりしてくる。
それが紛いもない須崎匠だと認識すると、文太の体は緊張でかたくなった。
「岳から聞いた。大変だったな」
彼は文太を見ようともしなかった。
「ごめん。せっかく来てくれたのに」
それに対し、梓はすんなりと詫びの言葉を発した。
「いや、元々は俺の都合で予定ずらしたんだし。まあでも……結果としては行かなくて正解だったな」
須崎は、言葉に含みを持たせながらも、決してこちらのほうを見ない。
文太はいたたまれなくなり、下を向いた。
「テント寄ってく?」
「いや、今日はこのまま神無月に戻るわ。アズもゆっくり休めよ」
ふたりが昨日の予定をおそらく今日にずらしたのだろうこと、そして、再度取り付けたその約束を、自分の捜索のために梓が反故にしたのだろうことは、話の流れから予想できた。
「ありがと。また近々、神無月に行く」
「ほんとに来いよ?」
須崎は、梓の肩から腕にかけて撫でた後、名残惜しそうに手を離した。
やがて、梓が先に歩き始める。
しかし、須崎はまだその場に仁王立ちしながら、文太を引き留めた。
ひと言いってやらないと気がすまないという顔だ。
文太は頭を下げて、須崎のつま先を見つめたまま言った。
「あの——迷惑をかけてすみませんでした。今後は……」
「ほんっとに迷惑なんだけど」
須崎の躊躇ない返しが、みぞおちにめり込む。
彼が怒るのも仕方がなかった。
山小屋のスタッフが、誰にも行き先を告げずに出かけて遭難騒ぎを起こすだなんて、ありえないことだ。
特に遭難救助に関わっている須崎にとっては、許し難いのだろう。
謝罪に対して、彼からの反応はない。
恐る恐る顔を上げると、須崎の顔はのっぺりと無表情だった。
それは、登山者としての意識を欠いた、軽率な行動に対する怒りではなかった。
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