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「今日はごめんなさい。色々と性急でした」
テントの中に身を滑らせると、文太は頭を下げた。
「謝んないんじゃなかったの?」
「あ、じゃあやっぱり取り消します」
梓が笑うと、文太の緊張も解れた。
しかし、呼吸をするたびに、これから発する言葉に対して、また新たな緊張が渦巻く。
あぐらの隙間に両腕を突っ込み、体を揺らすと、ダウンジャケットの表地がしゃりしゃりと、忙しない音を立てた。
「さっき須崎さんから色々聞きました。梓さんがまだ、兄を探してくれてることとか……」
「俺が勝手にやってるだけだ」
梓は途端、寝返りを打って、背を向けてしまった。
テントにのびた影が揺らめく。
「梓さんと兄ちゃんって、恋人同士だったんですね」
梓が息を呑み、動揺するさまが、影のわずかなゆらめきだけで読み取れた。
身じろぎをして、ウェアの擦れ合う音がわずかに立つと、あとはしばらくの無音が、ふたりを気まずく取り囲んだ。
「別に、そんなはっきりした関係じゃなかったよ」
梓から放たれたのは、わずかそれだけだった。
しかし、これ以上絞り出す気もない。決して苦しめたいわけではなかった。
「須崎さんに言われたんです。俺が梓さんに対してできるのは、今すぐ山から下りることだって。もう梓さんの人生に関わるなっていう意味なんだろうね」
「下りんのか?」
「下りないよ」
瞬間、なぜか梓が安心したように見えたものだから、文太は単純に浮かれた。
そして、気持ちを抑えきれなくなった。
「それに俺の人生は俺のもんだし? 自分の気持ちを遠慮するつもりも、さらさらないから」
文太は梓の肩を掴んで、仰向けにした。
彼の目が不安定に揺れたが、どうしても視線を合わせたかった。
たとえ梓が望んでいなくとも、独りよがりでも、改めて伝えておきたかったのだ。
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