1. 雨宿りの先客

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「こっち」 こちらが戸惑っているうちに、男は続けて言葉を発した。 「こっち……」 同じ言葉が繰り返され、それが要求だということに気づく。 顔を突っ伏したまま足の間から吐きだされた男の息は、やはり震えていた。 彼の言葉や要求は唐突で、ひどくぶっきらぼうだ。 文太だってもちろん、戸惑いがなかったわけではない。ただ、彼の決意めいたものを無視する気にもなれなかった。 「はい」 文太は膝で床を這って彼の隣に行くと、あぐらをかいた。 なにか言葉を探そうとしたが、彼がこちらからの声がけを求めていないのは、ぶつけられた肩に込められた力強さでわかった。 「戻ってくるの遅い。いつまでかかってんだよ……」 そう言いながら顔を擦り寄せてた時、文太は彼の顔を初めて至近距離で見た。 濡れたまつ毛は、纏まるとかなり長いことに気づく。 彼の呼吸は次第に荒くなり、ついにはしゃくり上げながら、両手で顔を覆ってしまった。 文太はただ、派手に泣くその男を見守っていた。 男の態度には困惑していない。むしろ恐ろしいほどに冷静だった。 彼の声や涙に濡れた頬を見つめているとなぜか、固く蓋のしまった缶が音を立てて落下し、ついに開封するような——唐突な懐かしさを覚えるのだ。 「許して」 やがて、男から放たれたその一言で、文太はようやく思い出した。 たぶん、彼とは一度会ったことがある。 「俺のせいで、ごめん。許してくれ……」 背中に手を回しそっと撫でてやっても、男は謝罪を繰り返していた。 まるでこちらの鼓動の音を確認するように、胸に耳を押しつけてくる。 文太は黙ったままでいた。 下手な言葉を吐くよりも、触れ合いで応じたほうが彼の希望に沿えると判断したのだった。 しばらく背中を叩いてやるうちに震えは止まり、男はふたたび眠ってしまった。  
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