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「こっち」
こちらが戸惑っているうちに、男は続けて言葉を発した。
「こっち……」
同じ言葉が繰り返され、それが要求だということに気づく。
顔を突っ伏したまま足の間から吐きだされた男の息は、やはり震えていた。
彼の言葉や要求は唐突で、ひどくぶっきらぼうだ。
文太だってもちろん、戸惑いがなかったわけではない。ただ、彼の決意めいたものを無視する気にもなれなかった。
「はい」
文太は膝で床を這って彼の隣に行くと、あぐらをかいた。
なにか言葉を探そうとしたが、彼がこちらからの声がけを求めていないのは、ぶつけられた肩に込められた力強さでわかった。
「戻ってくるの遅い。いつまでかかってんだよ……」
そう言いながら顔を擦り寄せてた時、文太は彼の顔を初めて至近距離で見た。
濡れたまつ毛は、纏まるとかなり長いことに気づく。
彼の呼吸は次第に荒くなり、ついにはしゃくり上げながら、両手で顔を覆ってしまった。
文太はただ、派手に泣くその男を見守っていた。
男の態度には困惑していない。むしろ恐ろしいほどに冷静だった。
彼の声や涙に濡れた頬を見つめているとなぜか、固く蓋のしまった缶が音を立てて落下し、ついに開封するような——唐突な懐かしさを覚えるのだ。
「許して」
やがて、男から放たれたその一言で、文太はようやく思い出した。
たぶん、彼とは一度会ったことがある。
「俺のせいで、ごめん。許してくれ……」
背中に手を回しそっと撫でてやっても、男は謝罪を繰り返していた。
まるでこちらの鼓動の音を確認するように、胸に耳を押しつけてくる。
文太は黙ったままでいた。
下手な言葉を吐くよりも、触れ合いで応じたほうが彼の希望に沿えると判断したのだった。
しばらく背中を叩いてやるうちに震えは止まり、男はふたたび眠ってしまった。
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