15. 深淵

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その日、ふと感じた違和感は、瞬く間に不穏なしみとなって広がっていった。 数少ない宿泊客を見送り、ふと作業の合間に手を止めると、岳が窓の外をじっと眺めていた。 それは、とりわけ珍しいことでもない。 彼はしばしば、雲の流れや登山者の様子を、談話室のこの大きな窓から伺っていたからだ。 しかし今日は——それだけではない気がした。 「どうしたんですか」 隣に並ぶと、岳の視線が泳いだ。 彼が与える間は、たちまち文太を不安にさせる。 「アズが今朝、出かけていったんだよ」 文太は耳を疑った。 昨日、ストーブで暖を取った後、文太は彼に小屋に泊まっていくよう勧めた。 この風雨のなか、わざわざテントで寝泊まりする必要もないと思ったからだ。 しかし彼はそれを拒否し、結局は戻っていった。 それ以降、姿を見ていないが、今朝もまだテントの中にいるものだと思っていたのに———— 「出かけたって、どこに?」 「師走キレットを抜けて、そこから無涸(ながれ)沢のほうに下りるらしい。この前、匠と計画してたルート……」 「この天気なのに何で?」 「わからない……。ここから無涸沢に行くってことは一般登山道じゃないだろ。それにあそこらの岩場は崩落が多いからさ。1人で行くっていうし、さすがに強く止めたんだけど」 須崎と計画した山行——すなわちそれは、兄の捜索を意味していた。 この天気で山、しかも一般登山道を外れた場所を歩くことがどれだけ危険なのかぐらいは、文太にもわかる。 そして、文太にわかって梓にわからないことなど、あるはずもないのだ。 だからこそ、梓の行動が理解できなかった。
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