15. 深淵

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「あいつ、最近ちょっと変だったろ? ずっと心配だったんだけど——」 「変?」 「うん。まぁもともと情緒不安定なとこがあってさ。それでもここ数年はだいぶ落ち着いてたのにな……」 文太は、繰り返された摩擦のためにツヤの出た床の継ぎ目を見ながら、昨日、最後に見た梓の表情がどんなだったかを思い出そうとした。 笑っていた? いや、悲しそうだったのか。 文太にはわからない。 「もう仕事に戻れ」と言ったきり、彼はストーブの火を見つめたまま、視線を寄越さなかった。 それでも、会話をしたときには笑顔もあったし、梓なりに、複雑な感情をこちらに示してくれようとした。 少しばかり前に進んだ気がしていたのは、自分だけだったのだろうか。 「俺、探してきます」 「ブンには無理だ。二重遭難になる」 岳にしては珍しく、きっぱりとした口調だった。 梓が既に遭難しかかっているようなその口ぶりに、胸が締めつけられる。 「でも……」 「大丈夫。梓が発った後、すぐに匠に連絡入れて、時間差で追いかけてるはずだから。あいつならルートもわかってるし、技術もあるから」 文太は、歯痒い気持ちを握り拳のなかに押し込めた。 爪が手のひらに食い込み、汗で滑る。 またしても、無力感というプールに落とされた気分だった。 「ブンも心配だろうけど、そろそろ休憩入りな」 岳に肩を叩かれて、文太は力なく立ち上がった。 それから受付付近に腰を下ろし、南方の稜線をただずっと、見つめていた。
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